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CAN-1-1-28 TEC-0-1-51 TEC-0-1-52 |
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[補足説明欄] ここまででTEC-0-1-50-6~20で提起された問題を解き終えた事に成ります。 当典での初等力学の学習は、これで終わりです。 ここまでを隅々までキチンと読解したなら、ニュートン力学をキチンと勉強したという自信を持ってよい、と私は考えます。 何事にも、経験した人にしか分からない事という物が有りますが。 初等力学正典を隅から隅までキチンと読解するという経験をした人には私の以下の話が通じるだろうと思います。 (1) 直感に合う法則から直感に合わない現象が導き出され、それが本当である場合もある、という事。 (2) 科学と技術の性格の違い。 (3) 学説の信憑性やレベルを自分で評価する鑑識眼 (4) 学問こそが仕事の中の仕事である (1)について。 加速度は力に比例し質量に反比例するという法則と作用反作用の法則と中心力仮説は直感に合うが、1点を固定された対称コマが倒れない様に支えられてもいないのに傾いたまま倒れない事(TEC-0-1-52補足説明欄)は直感に合わない。 それなのに、後者が可能である事が前者から論理的に導き出され、その演繹の過程には不明点が微塵も無い。 そして、1点を固定された対称コマが傾いたまま倒れない、という現象が現実に可能なのも本当です。 2001年09月11日のテロでのアメリカの貿易センタービルの倒壊の様子が航空機の衝突によると考えたのでは直感に合わない、だからアレは航空機の衝突ではなく爆破のせいだ、とする意見が有ります。 もちろん、直感は有力な手掛かりであり、直感に反するから間違っているのではないかと疑う態度は肯定的に評価されねばならない、否定的に評価するのは間違いだ、と私も思います。 しかし直感に反してもそれで間違いだと決まったわけではない、という事です。 結論が直感に反する事は、間違い探しを始める動機には成り得ても、間違っているという評価を確定させるには足りません。 物理法則と化学法則を使って貿易センタービルの倒壊現象をコンピュータでシミュレーションするとこう成った、という報告をテレビで見た事が有ります。 飛行機のエンジンの落下位置まで実際とシミュレーションで同じだった、とされていました。 私が自分でシミュレーションしたわけではないので確信は出来ませんが、そういう事は有り得るわけです。 コマの問題の演繹過程の一部始終を理解すれば、直感は誤り得る事が理屈として分かる様に成るだけでなく、第1印象としての直感が間違っている様子を可能性として抽象的に思い浮かべる事が出来る様に成ります。 それを2次印象と呼ぶ事にします。 コマの問題の場合は、大きな角運動量の向きを少し変化させるだけでも大きな力(のモーメント)が必要である事や角運動量の変化の向きと力の向きは違う事や数式処理から受けた印象の記憶、これらが2次印象です。 「抽象的に」と言うのは、コレコレの事という形でではなく、大体こういう感じの事という形で、という意味です。 2次印象は第1印象を補正する直感です。 すると、2次印象もまた直感だから、それは絶対ではありません。 その後の学習や研究で2次印象への反例に出会えば、それを教訓にして3次印象を形成する様に努めます。 そうして高次の直感を幾ら発達させても、それらも直感である以上、それらには真偽評価を確定させる力は有りません。 しかし、高次の直感まで動員しての推測は、第1印象のみに頼った推測よりも間違い難いでしょう。 真偽評価を確定させるのではなく、真である確率はどのぐらいか、偽である確率はどのぐらいか、という形で評価を出すのなら、高次の直感を発達させる事は、その評価の精度を高めます。 これは「人間がするディプラーニング」だと言えるかもしれません。 また、スポーツ選手のイップス(yips)と呼ばれるスランプは高次の直感と低次の直感の間の重みのバランスが崩れた状態(主に高次の直感を重んじ過ぎる状態)だと定義できるだろう、と私は思います。 いわゆる考え過ぎってヤツですね。 (2)について。 科学は既に有る物事を説明しようとする営み、技術は未だ無い物事を新しく作り出そうとする営み。 科学は発見、技術は発明。 解かれる前から、ニュートン力学が出来る前からコマは回っていた。 技術は科学に基づくとは限らない。 この事は、ひとつには、科学的根拠の無い技術を否定する態度が間違っている事を意味します。 しかしまたひとつには、技術は科学よりも荒削りである事をも意味します。 科学を技術から切り離して単独で論じる事は出来ますが、科学技術という言葉が示す様に、現在では技術を科学から切り離して考える事はほとんど出来ません。 しかし、もともと科学は技術よりも後発の分野です。 だから、科学なしで技術が営まれていた時代が存在し、それに科学が助言を与えようとしても最初は、考えてる暇が有ったら手を動かせ、下手の考え休むに似たり、と言われる様な軽んじられ方をした事でしょう。 しかし、考える事なく手を動かしているばかりでは、同じ事の繰り返しで何も進歩しません。 そして、進歩しなければ、いずれは行き詰まります。 少なくとも、資源(排出可能残量も含む)の枯渇という形の行き詰まりが有る事は、確実です。 そこで、技術よりも大器晩成な科学が必要に成って来るわけです。 技術が技術という言葉でよりも科学技術という言葉で語られる方が多く成った事は、その期待に科学が思ったより良く応えている事を意味するでしょう。 もっと小さな問題としては、科学を伴わない技術は「これがベストだ」という確信を持つ事が出来ない、という点を指摘できます。 もっと改良できるのか、それとも、これでもう限界なのかを、科学を伴わない技術開発は知る事が出来ない、という事です。 例えば船舶用のスクリューの設計で推進効率が最大に成るスクリュー形状を割り出せる可能性は科学には有るけれど科学を伴わない技術には有りません。 (3)について。 まず、定性的か定量的か、という観点が有ります。 定性的な(数学を使わない)記述に留まる科学理論は未熟あるいは低級であり、完成度の高い科学理論は真理を定量的に(数学を使って)記述するものである、という評価基準です。 もっとも、つまらない事を定量的に記述するよりも大事な事を定性的に記述する方が高級であるのは勿論です。 ダーウィンの進化論は定性的ですが定量的なアルキメデスの原理よりも高級です。 だから、記述が定量的である事は、科学理論が本格的である為の必要条件であって十分条件ではない、と言うべきでしょう。 大事な事を定性的に記述する科学理論も、それだけで十分に立派なのだけれど、まだ完成の域には達していない、という考え方です。 その意味で、(力) = (質量)×(加速度) という形で真理を記述するニュートン力学は、定量的であれという基準に合格しています。 しかし、定量的であるというだけなら、似非科学の理論も、自分を本当っぽく見せるために、数式を使って体裁を偽装している場合が有ります。 ニュートン力学は、単に定量的であるだけでなく、運動方程式が微分方程式に成っており、その解は数やベクトルやそれらの組ではなく関数(関数の値ではない)だ、という特徴を持っています。 この特徴を私は特に重視します。 微分方程式の様な関数を解に持つ方程式を主旨とする理論は、数や数の組を解に持つ方程式(これは関数と等価です)を主旨とする理論よりも、明らかに格上です。 ニュートンはケプラーの仕事の上前をはねただけだと言う大学の先生が居たが、その人はこの点が分かってない。 これはまた、労働者だけが働いているのであって学者は働いていない、という間違った考え(後述)の相似形である。 ケプラーの法則はニュートンの運動方程式の解です。(TEC-0-1-32~TEC-0-1-35) 関数を解に持つ方程式を主旨とする理論は、定性的な理論や関数を主旨とする理論よりも段違いに情報量が多く、それが確実だと成れば、どこで吐かれたどんなウソもそれとの矛盾を心配しなければいけなく成ります。 情報量が多いという事は、広い範囲の色々な事に口出しをする、という事です。 定性的なダーウィンの進化論は、それを直接に否定する言説としかハッキリした対立を見出すのは難しいが、定量的なニュートン力学は、例えば自動車事故について虚偽の証言があれば、それとの矛盾が見られる場合も出て来るだろう。 似非科学はこの特徴を真似る事が原理的に不可能だ、という事は有りませんが、実際には似非科学は、関数を解に持つ方程式ではなく、数や数の組を解に持つ方程式(数と数の関係)を主旨としているものだし、似非科学の著者はその事を自覚できないレベルの人である事が著作物からにじみ出ているものです。 これは、似非科学と真性科学を見分ける為に識別点として使えます。 また、似非科学の発信者がそこで見分けられない様に微分方程式を使うなどしても今度は、理論が現実に一致するかしないかというチェックポイントではなく、理論自体の巧妙さで(最悪の場合無矛盾性で)馬脚を現す事に成るでしょう。 展開して行くとボロが出る、というパターンです。 ニュートン力学の原理からコマの運動を導き出すまでの色々は、本当の事をキチンと解き明かした説明の良い模範を示しています。 色々な保存則の導出や例題の解やEulerの運動方程式を見れば、それが現実の現象と合致しているか否かを見る前から、どうもこれは正しそうだぞ、と感じられるでしょう。 幾ら展開しても、どこまで行ってもボロが出ない。 似非科学では、微分方程式を使っても、この様な感じは出せないでしょう。 間違った事を、ウソにウソを塗り重ねて取り繕っても、何か言い訳じみた不出来な感じに成るものです。 ホンモノを1度見ておけば、その後でインチキな言説を見聞きした時に「これは違う」と分かる様に成るものです。 初等力学正典で紹介したニュートン力学の学理は非常に精緻で高度なものですが、これでも大学1年生用です。 博士用でないどころか大学4年生用ですらないわけです。 それなのに、もし、高等学校で物理を履修しない進路選択をした人に、ある人がコマの問題を解いてノーベル賞候補に成っている、というウソを聞かせても、その人はそれがウソだと見破れない事でしょう。 世の中には、広い意味でそういう種類のウソに分類されるウソが蔓延しています。 これも、初等力学をキチンと勉強すれば、その人はそういうウソに騙されなくなります。 記述が定量的だとその真偽を実験で検証できる。 ここから、それを説明します。 実は物理学も数学の様な厳密な証明はしない。 コマの運動は証明したではないか、と言われるかもしれませんが、あれも証明ではありません。 だから物理学では証明と言わず検証と言うのではないか。 科学理論の検証は、結論が正しい事を持って仮定が正しいと判断する方式で行なわれます。 しかし、必要条件と十分条件は別なのだから、これでは証明とは言えません。 しかし、そこに定量的という要素が入って来ると、結論が実測と一致したのは仮定が正しかったからとしか思えない、というケースが出て来ます。 それは、仮定が間違っているのに理論値と実測値が何桁かに渡って一致する事が偶然に起こる確率は低過ぎる、というケースです。 そして、これが科学において理論を実験で検証するという事です。 したがって、それは十分に信頼できるけれども、数学の証明の意味での証明には成っていません。 そしてまた、他の仮定から出発しても同じ結論に至る事は十分に有り得るならば、その様な検証では、必要条件と十分条件は別だという理屈の方が立ってしまって、仮定が正しかったからとしか思えないとは言えません。 定性的な理論の検証には、この状態に留まらざるを得ない傾向、が有ります。 証明というのは、真である事を確める事ですが、検証には、間違っていないか確めるというニュアンスが無いでしょうか。 検証に合格するとは、何回やっても間違っている事が確認できなかったという事であって、どこも間違っていない事が確認されたという事ではない、そういうニュアンスだと思います。 例えば、ガリレイの自由落下の法則を検証しようとして、幾ら色々な物体を色々な時に色々な場所で落下させて加速度を測定しても、自由落下の法則が間違っているという結果は得られなかったという以上の事は分かりません。 なぜなら、自由落下の法則は、どんな物体をいつどこで自由落下させてもそうなる、という法則であり、全ての物体を全ての場所で全ての時に自由落下させて確める事は出来ないからです。 その時その場所でその物体を自由落下させたらそうだったかもしれないが、他の時に他の場所で他の物体を自由落下させたら違うかもしれないではないか、という反論には答える事が出来ないわけです。 また、加速度を測定するといっても、有限個の時刻に位置を測定する事しかできません。 しかし、加速度は必ずこうであった、という結論を得るためには、連続無限個の時刻に位置を測定する必要が有ります。 だから、加速度はこうだという主張が反証されなかった、加速度はコレコレだったからとしか思えない、という形の結論までしか実行可能な検証では得られないわけです。 それは、高速度の動画撮影が出来る様に成った現在でも同じです。 幾ら何でもそりゃ言い過ぎだと言われるかもしれませんが、いや、でも、数学はそういう批判を受けない証明をしてますよね。 数学で任意の実数について成り立つ事を証明したと言えば、本当に任意の実数について成り立つ事を証明したのであって、何個も調べたけど成り立ってたので証明終わりなんて事は許されません。 物理学はそこまでは出来ない、という事です。 理論が定量的である事は、情報量が多いので広い範囲の色々な事の証拠に成り得るし、その分不確かなわけでもない、しっかり検証も出来る、何から何まで良い事づくめというわけです。 ただし、そういう理論を発見するのは難しい、ただこの一点だけが弱点です。 事実がどうであったかの裁判での判断を見るとき、まず、それが、ニュートン力学の推論のキチンとしている様子と比べて粗末である事が感じられるでしょう。 包丁での刺し傷の位置を根拠に殺意が有ったか無かったかの事実認定を行なう、そんな事が裁判では有るそうですが、ニュートン力学の推論の過程にそんな不確実な所は有りません。 包丁での刺し傷の位置を根拠にして殺意の有無を、ニュートン力学のレベルまでキチンと言いたいなら、まず殺意を脳の物理的状態として定義し、身体の運動を表す関数が殺意の有無によってどう違うかを、心身が従がう科学理論に基づいて算出し、そこで使った科学理論も予めニュートン力学ぐらいシッカリ検証されていなければいけない。 それに比べれば裁判での証明はてんで証明に成っていないわけです。 定量的記述という観点でなくても、目にゴミが入った、被害者の防御で攻撃腕の進路が変わった、手元が狂った、などの可能性が有るので、刺し傷の位置で殺意は立証できません。 指紋などの証拠にしても、裁判で提出された指紋が本当に事件現場で採取された物である事は証明されない。 その他、検察側がウソをついていない事を前提にしないと証拠に成らない物を証拠にしておきながら、検察側がウソをついていない事は証明できない。 可能性については、裁判では合理的な可能性でなければ可能性として認められないようですが、立証するのは検察側なのだから、そう言うなら、検察側が可能性を合理的でないと証明しなければいけないはずであって、弁護側が可能性を合理的だと証明しなければいけないのではおかしいのに、弁護側が証明させられるみたいじゃないですか。 ニュートン力学に比べてすら証明に成っていないのだから、立証に使った科学理論が数学における証明ほどには証明されていないではないか、と言われたら、もうお手上げです。 また、精神科学の理論を根拠に事実がどうであったかを判断するのも、今度はこれは科学理論というものに信頼を置き過ぎです。 科学理論を疑う事はしない、という態度では、似非科学に科学の資格を与える不正行為の害に対して無防備です。 裁判での証明には、裁判で立証されたというのは本当かを後で何時でも誰でも確認する事が出来るのではない、という欠点も有ります。 裁判で立証された瞬間も、それで立証された事になると確認したのは法廷内に居る人だけで、それ以外の人は伝聞で判断するに過ぎません。 記録文書で確認する事は出来ますが、記録文書に書かれている通りだったのか否かは確認できません。 その点、数学の証明は、後でいつ誰が「やっぱり違うんじゃないか」と思っても、そう思う度に何回でもそう思った人が自分で確認できます。 こういうのを科学では検証の再現性と言うのですが、裁判での立証は1回限りで再現性が無いわけです。 これは、裁判のやり方がいけないのではなくて、個別具体的な出来事がどうであったかはどれも立証できない事の一例です。 いつでもどこでも成り立つ事を主張する物理法則の検証は再現性の有る実験で出来ますが、ある時ある場所で起こった個別具体的な事件がどうであったかを事後的に立証する事は数学の証明ほどシッカリとは出来ないどころか物理法則の検証ほどシッカリとも出来ない。 だから、出来得る最善の裁判での立証も、数学の証明ほどにはシッカリできないどころか、物理法則の検証ほどにもシッカリとは出来ないわけです。 (4)について。 学問こそが仕事の中の仕事である。 ・・・ (4a) それなのに、仕事の中の仕事は学問ではなく労働だ、と言う人が居る。 ・・・ (4b) (4b)の正体は社会主義や共産主義のプロレタリア道徳です。 ・・・ (4c) さらに遡ると、プロレタリア道徳は奴隷道徳に由来すると思われる。 ・・・ (4d) 以下で私は、プロレタリア道徳の不正の具体例を挙げ、 ・・・ (4e) それを根拠にして奴隷道徳一般の不正を言い当てます。 ・・・ (4f) さらに、その不正の具体例を挙げて、証拠とします。 ・・・ (4g) (4a) 学問に比べれば他の仕事は働いたうちに入らん、とすら言える。 一番難しい部分はオレがやっといたから、後はお前らでも出来るだろう、とか、手伝いをしてくれた子に親が、ありがとうねえ、お利口さんだねえ、と言う様な態度、これが学問の他の仕事に対する本来あるべきスタンスです。 私は実在の学者をもっと尊敬しろと言ってるのではなく、実在の学者のほとんどはどうせその域に達していないだろうけれど、それでは学者のうちに入らん、と言ってるぐらいに解釈して下さい。 学問は他の仕事より働きがずっと大きいと言っても、それは、ニュートンの時代に対してのニュートンの働きに匹敵する事を現代に対してした業績に限られた話であって、どの先生のどの論文もというわけではありません。 だから、他の仕事よりずっと働きが大きい学問に携わるのは、人数としてはほんのわずかです。 では、そうでない人は学問なんて最初から学ばないほうが良いのでしょうか。 私はそうは思いません。 それは、学問を学んで分かる様になった人が多ければ、世の中にインチキが通用しにくくなるからです。 その意味で、学者のうちに入らん学民を増やす事には意味が有ります。 つまり学問は、自然を研究する理科系の学問であっても、社会や政治を健全にする働きをする。 無理が通って道理が引っ込む社会に成るのか否かを学問が左右するのです。 学校の勉強なんて社会に出てから何の役にも立たない、と言う時には、この点が考え落とされている。 考え落とされてるんじゃなくて、インチキが通用しなくなる事を不都合だと考える人が故意にそう言ってるのかもしれない。 無理が通って道理が引っ込めば、レベルの低いところで競う社会に成ってしまう。 所詮、悪の山は善の山より低いからです。 命の無い所に殺しは無く、創造の無い所に破壊は無い。 所詮、悪は善の付帯物、派生物でしかない。 しかし、これは悪が弱いという事を意味しない。 なぜなら、作るより壊す方が簡単だからだ。 作るのと壊すので競争すれば、壊す方が勝つ。 これが、悪の強さの本質です。 したがって、悪は強いけれど自慢には成らない。 では、悪は善よりも強いのか。 そうとは限らない。 なぜなら、自慢に成らない事が悪を目指す動機を減らすし、善の側も作るだけでなく悪を壊す事もするからです。 (4b) それなのに昨今では、知識人や文化人は居候階級であるとする共産主義思想に似た思想傾向が強まっている。 学問は自分達だけが働いているんだから他の仕事にオラオラもっと働けとは言わないのに、他の仕事は自分達だけが働いているんだから学問なんてやめてお前らも働けと言う態度だ。 これは、労働者だけが働いているのであり知識人や文化人は働いていない、という考えです。 学問と比べて労働を蔑む考えに職業に貴賎は無いと言って反対する種類の人々が、そういう事を言うのは詭弁です。 職業に貴賎が無いんなら労働が最も貴い事も無いはずだ。 (4c) 共産主義国である北朝鮮の与党の名称が労働党である事を見ても、その事が分かります。 労働の何がいけないんだ、労働を否定する社会は滅びる、と言われるかもしれないが、労は余計なんじゃないかと私は思うんですよね。 働党なら私も賛成です。 活働党ならもっと良い。 労というのは損害なわけだから、労働党では、損害を推進するという天邪鬼な意味に成ってしまうと思うんですよね。 これは曲解ではなく、実際、プロレタリア道徳では、労働者は労をもって自分の偉さとするではないか。 (4d) 労働者だけが働いていて学者は働いていない、ニュートンはケプラーの上前をはねただけだ、これら逆転した価値観が価値転倒である事は、小林道憲著<生命の哲学>コレクション第2巻282,283ページに、ニーチェの指摘として紹介されている事がそれだと思われます。 『主人道徳の称賛する徳は、何より勇気であり、力強さであり、偉大さであり、高貴さである。・・・それに対して、奴隷道徳は弱者の道徳である。平均的で似通った者、卑俗な者、・・・要するに凡庸人のもつ道徳、それが奴隷道徳である。ニーチェは、・・・そして、同情とか、親切とか、忍耐とか、勤勉とか、謙遜とか、中庸とか、寛容というような徳は、むしろ、奴隷道徳または畜群道徳に属するものとする。・・・それらは、弱者にとっては良心に発するものと思われているが、実際には臆病の裏返しにすぎない。しかも、ニーチェは、『道徳の系譜』の中で、奴隷道徳は、ルサンチマンから、主人道徳に対して、道徳上の復讐を行なうと言う。・・・彼らは、強者を嫉妬し、敵意を懐き、恨む。そして、強者の強さ、豊かさ、貴さを悪とし、おのれ自身の弱さ、乏しさ、卑しさを善とし、強者に復讐しようとする。・・・こうして、正義の名のもとに復讐を神聖化しようとする企てが、奴隷道徳における価値転倒の企てにほかならない』 これは私が前々から自分でも憤りを持って感じて来た不正の存在をかなり(百パーセントではない)的確に指摘していると感じる。 我が意を得たり、です。 百パーセントではない、というのは、私は、善悪と優劣は別だから、優れで悪の埋め合わせをする事も、善で劣りの埋め合わせをする事も出来ない、と考えるからです。 また、ニーチェは劣った人が感じる事として嫉妬を挙げているが屈辱を挙げていない。 その点が不十分だと私は感じています。 劣った人が行なう犯罪の極めて怨念じみている様子から、その動機として嫉妬では不十分だと私は前々から思っています。 その様な犯罪の動機は嫉妬ではなく屈辱なのです。 私は嫉妬という言葉では許さない。 その点も、ニーチェの至らない点であり、おそらく座学しかしてないからでしょう。 ニーチェの価値観は、著しい優れは悪を帳消しにする、という価値観であり、奴隷道徳の価値観は、悪は優れを帳消しにする、という価値観です。 しかし、優れていても悪ければそれは悪く、悪いけれど優れていればそれは優れているのであり、優れが悪を不問に付させる事も、悪が優れを打ち消す事も出来ません。 さらに、劣っていない事は義務ではないが悪くない事は義務だ、という意味で、「お前は劣っている」という主張と「お前は悪い」という主張を戦わせれば、「お前は悪い」という主張の方が勝ちます。 だから、善悪と優劣の4つの組み合わせ、善優、善劣、悪優、悪劣、を比較すると、 善優は善劣よりマシ、善優は悪優よりマシ、善優は悪劣よりマシ、善劣は悪優よりマシ、善劣は悪劣よりマシ、悪優は悪劣よりマシ、という事に成ります。 このうちの善劣は悪優よりマシである事に基づくと、奴隷道徳が善悪の基準として本当に正しいならば、奴隷道徳の方が主人道徳よりも正しい事に成ります。 しかし、それでは、奴隷道徳は善悪の基準として正しいのでしょうか、奴隷道徳で自分を正当化する人は本当に善なのでしょうか、優れている人は必ず悪いのでしょうか。 そんな事はありません。 もともと、奴隷道徳で自分を正当化する人は、主人道徳で自分を正当化する人から不当な害を受けている事だけを批判の対象としているわけではありません。 主人道徳で自分を正当化する人の自分よりも優れている事を気に入らないと感じ、その埋め合わせをするために、相手の悪い点に着目してそれを批判している、という部分も大きい。 優れているという批判の対象とは成らない相手の特徴を気に入らないと感じても、その気持ちの埋め合わせをする為に、その代わり相手にはこんな欠点があるもんね、と考えても、それだけでは悪いとは言えません。 しかし、その主張が社会的に是認されてしまうと、もはや奴隷道徳は弱者の道徳ではありません。 なぜなら、社会的に是認された善悪の基準に相手が違反しているんだ、という言い合いで勝った者が実際には最も強いからです。 暴力がそれに従がうから。 そうなっても、言ってる事が間違っていなければ、悪いとは言えません。 強くても間違っていなければ悪くはない。 そこまでは、そうです。 しかし、話はそこで終わらない。 ここで、優れている人は必ず悪いのか、という論点が入って来ます。 優れている人も、今までは自分の優秀性にあかせて悪い事もやってきたけれど、そんなに言うんなら悪い事はもうやめた、お前らも最初からやめといた方がいいぞ、と言い出したらどうなるだろうか。 優れていれば悪い事も出来てしまう、という事は有るだろうけど、優れていれば悪い事をせざるを得ない、なんて事は無い。 劣った人から悪口を言われたので、その悪口が社会的に是認されてもう同じ事は出来なくなったので、あるいは、前の世代の優れた人がそうなのを見て次の世代の優れた人は最初から、悪い事を一切せず劣った人がぐうのねも出ない形で完膚なきまでに勝利しようとしたら、どうなるだろうか。 もう、そういう時代に入っている。 どうなるだろうか? 優れた人に替わって劣った人が悪い事をし始める、というのが正解です。 そうなると、劣った人は優れた人の優れている事を気に入らない気持ちの埋め合わせをする事が出来ない。 そこで、ルールを不当に吊り上げて優れた人がそれに違反したという難癖を付けるわけです。 これは犯罪です。 強いと言う言い方は間違っている。正しくは優れている。 弱いと言う言い方は間違っている。正しくは劣っている。 強いとは、他者と対立している物事が自分の思い通りに成る程度が大きい事だ、と私は定義します。 同じ事を狙う人が多いほど強い事に成る。 政治的に強い事と生物個体として優れている事を区別する必要が有る。 優れた者が強いわけではない。 優れているというのは、1人で出来る事が大きい(同じ事をするのに掛かる負担が小さい)事だ、と私は定義します。 特定の個人が強いという事も政治的に強いという事である。 我々の社会において男が女より強いのも、政治的に強いという事です。 男が女より強いのは男女差別によってであり、差別は政治的な手段だし、国外には女が男より強い地域も有ります。 男の方が女よりも筋力や知力の点で優れているから男が女より強いわけではないのです。 国外に女が男よりも強い地域が有る、というのは、主人道徳の意識が高すぎてレディーファーストだと言っているがホントは男の方が強い地域の事ではありません。 ガチで女の方が強いと聞く原住民部族社会が局所的にありますよね。 牝鶏晨す(ひんけいあしたす)という言葉も有ります。 優れている方が強いならライオンは人間より強いですか? そんな事はありませんよね。 人間社会の中で個人と1匹のライオンが対立したら、ライオンの思い通りに成る事は何も有りません。 それはライオンよりも人間の方が頭脳が優れているからだ、とあなたは言うかもしれません。 しかし、それでは、人間の中で最も優れている1人が、あなたは人間ではない、という認定を受けたらどうでしょう。 他人と対立する物事がその人の思い通りに成る事はひとつも無く成る事でしょう。 人権の尊重とは、そういう認定をしてはいけないという事です。 そういう法規が有る事は、それに違反するという形の犯罪が有る証拠です。 西側諸国の中で最も優秀な軍人が1人だけ歩兵の装備(通信機不可)で北朝鮮のド真ん中に投げだされても、本当に戦う気が有るなら、直ぐに武器を見付からない場所に捨てて、口で上手いこと言って書記長まで上り詰めるしかない。 奴隷道徳→プロレタリア道徳、同和→社会主義、共産主義 主人道徳→ブルジョア道徳→自由主義。 (4e) まず、プロレタリア道徳は価値判断として虚偽の申告をしている事、を説明します。 学問以外の仕事の方が本当に学問よりも偉いんなら、学問以外の仕事は学問に対して、お利口さんだねえ、という寛容な態度を取るはずだが、実際は違う。 そして、そう言われても学問は怒らないのに他の仕事は「馬鹿にされた」として怒る。 これは、学問以外の仕事が学問に対して劣等感や屈辱を感じるからだと私は思う。 それは、学問以外の仕事も本当は自分たちより学問の方が偉いんだという事を薄々勘付いているのに、そう思わなくて済むように、出来るだけそう思われないうに、言語的にも非言語的にも反対の表現で白を切り通しているからだと思う。 「お化けなんて無いさ、お化けなんてウソさ」と皆で声を揃えて歌っている様な物です。 これが「相対性理論は間違っている」という言説の正体です。 でも本当は「だけどちょっと、だけどちょっと、だけどちょっと怖いな」という風に本当の事を知ってるわけです。 そして、お化けが出そうな方向から目をそらすかの様に、皆で学問から目をそらしている。 お化けと違って学問の真価は実在する。 テレビでも、学問を紹介する時には、視聴者がショックを受ける様な強烈な賢さの紹介は避けられている様に思う。 大学の先生の研究も蓋を開けてみれば子供の夏休みの自由研究みたいな物である事を見せて、視聴者の自尊心をホッと安心させるとか、まるで神の様だと感じられる強烈な賢さについては自分とは無縁の遠い別世界での事として視聴者が何も感じない様に配慮してあったり、ではないですか。 これには価値転倒が転倒である事に気付かせない目的もあるだろう。 ニュートンはケプラーの上前をはねただけだと言った先生は、また別の機会には、私が自分で思い付いた事を他人のアイデアの盗用だと決め付けたこともあった。 それは、ポテンシャルエネルギーを表す関数としてデルタ関数という物を試しに使ってみる、というアイデアでした。 その先生は「それはデルタポテンシャルだ」と言っていたので、それ以前に既に誰かが公式の場で使っている物だったのだろうけれど、私はそれをカンニングしたのではないし、その先生の発言もその場しのぎのハッタリだったのかもしれない。 私は確認してないが、確認すれば分かる事だ。 デルタポテンシャルなんて名前を付ける程の物ではないので疑わしい。 その程度の事は、ニュートンの業績に比べればゼロに等しいぐらい軽微ですが、しかし種類がケプラーの仕事よりニュートンの仕事に近いのが分かるでしょう。 多大な時間と労力を費やして勤勉に観測しデータを整理してそこに規則性を見出したのがケプラーの仕事であるのに対して、リンゴが落ちるのを見て万有引力の存在に気付いたみたいなのがニュートンの仕事ですよね。 デルタ関数を試しに使ってみた場合の計算がお前なんかに出来るわけない、というのではなくて、デルタ関数を試しに使ってみようかななんてお前が自分で思うはずがない、というのが、その先生の発言だったので、その先生はニュートンの種類の仕事の方がケプラーの種類の仕事よりも偉いと本当は思っている事に成ります。 なぜなら、つまらない仕事なら、絶対にお前に出来るはずが無いと言ってむきになって否定したりはしないからです。 お前が自分で思うはずがない、と強く否定した、という事は、その先生が卓越した思い付きという物を素晴らしいと評価しているという事です。 論理的には、素晴らしい、ではなくて、難しい、かもしれませんが、それでも、ケプラーの仕事よりニュートンの仕事の方が難しいなら、主たる功績者はケプラーではなくニュートンだという事に成りますよね。 この事は、その先生がケプラーの仕事的なものよりもニュートンの仕事的な物の方が素晴らしいと本当は思っている証拠だ。 つまり、ニュートンは悪いという善悪判断の根拠として使った価値判断に虚偽の申告が含まれている。 したがって、その様な善悪判断は不正である。 そして、この事は、知識人や文化人は居候階級だとするプロレタリア道徳や、ニーチェが言う奴隷道徳一般についても言える、と私は考える。 不正な善悪判断によって相手を悪だとする事は悪だし、また、その善悪判断によって悪だとされても悪だという事には成らない。 こうして、奴隷道徳は善悪の勝負においても主人道徳に勝っていないのである。 奴隷道徳を持つ人が奴隷道徳の正しさの根拠として挙げる事に自己欺瞞および対他欺瞞が含まれる、というだけでなく、微積分の先取権をニュートンとライプニッツが争った事なども、微積分の発明が大手柄である証拠です。 そして、それは、ケプラーには出来なかった事だし、ニュートン力学からケプラーの法則を導き出すのに必要です。 となれば、ニュートン力学全体に占めるニュートンの功績の割合はケプラーに比べてずっと小さいなんて事は絶対に無いのです。 それに、ケプラーの業績にはちゃんとケプラーの名前が付いている。 ケプラーの法則をニュートンの法則とはいわないのだから、ニュートンがケチを付けられる点は何も無い。 それなのにニュートンはケプラーに従属すると主張する事、は明らかに価値判断としての虚偽の申告です。 その先生は例外ではなく平均的な人です。 平均的と言っても、博士号を持っていたし職業は大学の先生でした。 だから世間的には平均よりずっと上です。 私が平均的だと言うのは、学者ではなく学民だ、という意味でです。 また、正義観や潔さは物理学の才能とは別であり、物理学の才能は世間一般の平均よりずっと上だったが正義観や潔さは凡庸人だった、という意味でです。 私が言いたいのは、平均的な普通の人は非常にいけない、という事です。 ニーチェの意見にも、そう書いてあるでしょう。 これは、平均的な普通の人の神経は学問のルールに耐えられないからだ、という面も有りますが、他の分野でも結局は同じ事なんだよ、というのが、知識人や文化人は居候階級だと言い出す人が居る事から分かる。 別の例を挙げると、未出ではないかと思われる事を私が自分で新規に考え出し、それを他者に言った時に決まって不審な強い拒絶反応に遭う事が過去に何度も有った。 その拒絶反応をしたのは私と同世代の私の色々な友人で、見た感じ、その人の自尊心で言ってるのではなく、第3者への配慮として言ってる様だった。 つまり、私がその場に居合わせない誰かの権利を侵害しようとしている、という口ぶりだったのである。 この事は、卓越した新案という物は本当は極めて重大である事、の証拠だと見なせる。 アイデアが新しいという事は、過去に誰も思い付かなかった、従がって今生きている年上の人も誰も思い付かなかった、という事です。 それを私が最初に考え出したと言う事は、それらの人を差し置いてオレの方が偉いと言う事なんだぞ、という反発なのか、それとも、どこで誰が考え出したアイデアも予め決められている(範囲内に居る)何者かに帰属させられる事に成っていて、私がその何者かのその権利を侵害しようとしていると考えての反発だったのかだと思う。 物理学についてだったと思うが、私が友人に自分の説を述べると、それを聞いた友人が「馬鹿にしてるのか」と言って怒った事が有る。 これは、その友人を馬鹿にする様な事を私が言ったとか言う様な通常考えられる事ではなく、もし私の説が正しければ私よりも立派だと普通は考えられているずっと年長の学者よりも私の方が偉い事に成ってしまう、という意味での事でした。 私の言ってる事の方が正しいならば、それは私が馬鹿にされているという事であって、私が相手を馬鹿にしたのとは違う、この様に私が言い返すと、それを聞いた友人は声を荒げて「お前こわくないんか!」と恫喝した。 私を心配しての発言ではなく、明らかに私と対立する第3者に味方して私を責める発言だった。 ここで注目して欲しい点がひとつ有る。 それは、「お前こわくないんか!」という恫喝より前の発言は全て、私を道徳的に間違っていると主張する発言だったのに対して、「お前こわくないんか!」という恫喝では一転してその態度がかなぐり捨てられている、という点だ。 それまで私に道徳を説いていたのは偽りの姿であり、正体である暴力が姿を現した、という事です。 道徳で言い負かされたら道徳以外の事を理由にしたという事は、最初から理由は道徳ではなかったという事です。 世の中に多くある道徳を理由とする言説も、そういうものではないかという目で見る必要があります。 この様な事が複数回あった。 あ、何となく思い出した。 私が自分のアイデアを述べたのではなく、私を恫喝した友人が私に大先生の見立ての是非を私にたずね、それに対して私が「違う」と一言で無下に切り捨てたのだった、多分。 そんな言い方をしなくたって良いじゃないか、と思うかもしれないが、その頃までに私にはこのページに書かれている事の大意が義憤として蓄積されていたので、その頃には既に私は非常に不機嫌に成っていたのである。 例えば、お前なんかに解けるもんかと言って出された問題に答える時にはキツイ言い方に成るでしょ。 内容は技術レベルの事ではなく物理学的真理についての大局観の様な事だったと思う。 それは、なんでそんなことがわかるんだ、と言われる様な事を先見的に見抜く私の発言であった。 したがって、違うという事を私は証明しました、という意味ではなく、予想だと解釈されるべき様な事でした、多分。 友達というものの仮面が剥がれた瞬間だった。 顔も名前も思い出せない、当時も名前を知らなかったかもしれないから、同級生だが親しい友人ではないという関係の人だったかもしれない。 しかし、私に話し掛ける際に自己紹介が必要ない種類の人だった。 これは、学問の自由という物を非常識だ論外だとして否定する態度である事が誰の目にも明らかである実例ですが、大先生の意見に反対するなという同じ事が、学問の自由を侵害するなという言葉で表現される事は、甚だしい詭弁である。 だから、2020年に日本学術会議の会員候補の一部を会員に任命する事を政府が拒否した際に、政府の態度を学問の自由への侵害であるとする意見が多く聞かれ、それを見た私は、何だそりゃと思った。 つまり、「お前こわくないんか!」という思想をですね、別の言葉で表現したものが「学問の自由を侵害するな」であると思われる。 そして、これが、リベラルを名乗る左翼知識人の暴力性なのである。 この事は、奴隷道徳が支配する社会では奴隷道徳ではないかの様に偽装する為に知識人を置くが、その人選は奴隷道徳が支配する、奴隷道徳が正しい事が研究の結果わかりました、という似非先生しか知識人に成れない、また逆にそう言っていさえすれば実質上無研究でも偉い先生だと祭り上げられる、そういう奴隷道徳の自画自賛体制が出来上がっているからかもしれない。 その事を示す例として、朝まで生テレビという討論番組の名物司会者である田原総一朗さんの面白い発言が有る。 若い頃ソ連に行ってソ連には言論の自由が無いからソ連は駄目だ言論の自由が無い国は駄目だと思ったが帰国してそんな事を言えばクビに成るから当時は言えなかった、という発言だ。 言えばクビに成るって日本も言論の自由が無いって事じゃないですか。 また、政府による任命拒否への多数の学者の異口同音の批判の殺到、あれが、ネットでの誹謗中傷と呼ばれている現象の本質である。 では親しい友人は違うのかと言えば、必ずしも違わない。 別の機会に別の事で親しい友人が同様の態度だった事も複数回ある。 私が自分に仕掛けられている犯罪の話をすると「誰が何の目的でそんな事をすると言うのか」と言って私の主張を退ける人が居るが、私への犯罪の動機なら、この様に非常に物騒な物が何十年も前から存在しているのだ。 この様に、アイデアというものは、その価値を表向きには否定する人にとっても本音では重要なのである。 その証拠が、アイデアの価値ではなく出自を抹殺しようとする行為が見られる事です。 ここまでで紹介した話における私のアイデアが具体的にどういう物だったか思い出せませんが、私にとっては思い出せないぐらい些細な事です。 そんな些細なアイデアですら、アイデアというものは出自を抹殺しなければいけないぐらいに重要だと考えられているのだから、私の文法物理学のアイデアの重要さなんか一体どれぐらいなのか。 労働の事実がそういう扱いを受ける事は有りません。 アイデアではないが、何を自分の学習や研究のテーマにするか訊ねられて私が答えると、尋ねた人が「大変だ!○×さんのだ!」と大声で叫んだ事も有った。 私の文法物理学に対して「ワインバーグが怒るんじゃないかなあ」と言った友人も居る。 これなんか特に意味不明なので、この発言が直ちにワインバーグの罪の証拠と成るわけではないが、しかし、他の不審発言と妙に符合する。 私が自分の部屋で自分で勉強したり研究したりして出した結果が予め他の誰かの物だと決められているなんて許せない話である。 それも、私が言わなくてもいずれ誰かが言う程度の事なら一理ぐらい無くもないが、私が言わなければ百年経っても誰も言わない様な事が私以外の誰かの物だとする事には一分の理も無い。 一分の理も無いからそれは正義ではないが、もし仮にそれが正義であるなら、私はとっても善い人だから、譲りますよ。 けれど、それでも全て丸く収まるのかと言えば、それでもおかしな所が残る。 間違った事は、どうつくろってもつくろい切れないのである。 おかしな所と言うのは、アイデアを盗まれたら本当の発案者が発案を続ける事が出来なく成ってしまう事です。 1件だけなら本当の発案者が譲ればそれで済みますが、その後の事を考えると、アイデアを盗んだ人には発案能力が無いのだから、本当の発案者が発案を続ける事が出来なく成ったら、そのあと誰が発案するんだって事に成る。 また、アイデアと言っても、一言で表現できるアイデアなら表現を発案者以外の人が代行できますが、書けば1冊の本に成る様な思想を発案者以外の人の物だとする事には無理が有ります。 それは罪が重過ぎる。 また、本の著者名を偽るだけなら出来ても、質問に答えたり同じ思想を言葉を変えて説明したりという変化が盗んだ人には出来ないからです。 思想という物は、書籍の様な無生物としてではなく、それを発案した人の精神の様な生き物として存在しているからです。 それは言い過ぎだとしても、書籍には書き切れなかった事というのが、発案者本人には内蔵されているわけです。 物理学正典には学問的に新しい事は何も書かれていませんが、この様な解説書は私が書かなければいつまで経っても誰も書かないだろうし、私が実際に最後まで書いて見せなければ執筆方針だけ教えても他の人には書けません。 アイデアを盗まれると主旨を曲げられる恐れも有ります。 私がこのページに書いている様な倫理観については、このページで行なっている様に私が直接発信しないと、それとは正反対の意見が宇田の意見です、という風に偽って伝えられる恐れが有り、実際そういう事が多かっただろうと思っている。 私が非常に子供だった頃には、もっと直接的な否定も受けた。 自分はまだ誰も考えていない新しい事を世界で一番最初に考え出して世界中に教える人に成る、と私が言うと、それは駄目だと言われた。 その時に私は、私が考え出した事は誰でも思っている事だとして自由に利用してよろしい、と言う羽目に陥った。 学者に成るのも駄目だと言われた。 それも、私の記憶では幼児の頃だと思えるが、実際には小学生ぐらいだったかもしれない。 どちらにしても、駄目だと言われる年齢ではない。 もっとも、大学生でも言われるのは間違っているが。 また別の機会には、自分の考え出したアイデアは自分の物だ、と私が言うと、そんな事誰が決めたのか、と言われた事も有る。 今思い出しても頭痛がする。 アイデアを誰の物だと言うのは正確な言い方ではないが、誰が考え出したかの事実を歪められない権利は誰にでも有るはずだ。 また、誰も思い付かない様な卓越したアイデアを誰でも思っている事だと偽る事は、発案者の一存で許可される事ではない。 なぜなら、それはアイデアの評価の相場を歪めてしまうからです。 後で他の誰かが良い事を言ったのに誰でも思っている事だと言われてしまう事につながる。 また、本当の発案者ではない人を発案者だと偽って広める事は、歴史の歪曲であり、実害が無くても許される事ではない。 学生時代に、自分の思い付きをメモした「物理学の偶発的方法」というタイトルのノートを同じ下宿の友人に見せたら、「お前これを発表するつもりじゃないだろうなあ」と言われた。 発表するつもりは無いと答えると、「ならええ」といった反応だった。 私はそれを発表するつもりは無かったが、それは、発表してはいけないと考えたからではない。 私が自分の考え出した事を自分が考え出したという事実を他者に盗ませない様にすると、それをまるで私が泥棒でもしているかの様に逆さまな事を言う反応が返って来る事があります。 それを見た時に私は、身体に神経痛が出たり、腕が萎えて動かなく成る様な感覚を覚えるストレスを感じます。 これは人権侵害のレベルではないでしょうか。 心身にそういう傷害が出た事は、私がわがままだから不満を持つのではない証拠、不条理の程度が限度を超えて大きい証拠です。 不愉快とかいった、そんな生易しいものではない。 それなのに犯人は、自分達の被害は不愉快すらカウントするが、私の被害はそんな事までノーカウントです。 これがエコヒイキなのです。 これは、ひとりの人に残り全ての人がしたからという理由によっても許されない犯罪です。 2016年に来訪した数十年来の友人は、私の宇田方程式を見て、「これ、もう発表したんか?」と質問し、私が「もう発表した」と答えると、指を鳴らしながら「ちぇっ、惜しかったのう」と言った。 その友人は物理学を知らない人だが、宇田方程式の価値を非常に大きそうだと見込んで、発案者を私から別の人に摩り替えようと狙った、という事だ。 それはともかく、卓越したアイデアという物が大して名誉でも功績でも無ければ、そんな反応は生じないのである。 卓越したアイデアの名誉と功績には労働の名誉や功績は到底比肩し得ない、この事をプロレタリア道徳の人も知っている。 それなのに違うと言っているのは、価値判断として虚偽の申告をするという不正である。 本当に違うなら、拒絶反応は生じないはずである。 仮想的に自分が自給自足をしている場合を考えると、そこで自分がした事の中で何を格別に素晴らしいと思うだろうか。 この日は手作業をした、この日は荷物を運んだ、この日は名案が思い浮かんだ。 名案が思い浮かんだ日が最も特別なのは明らかです。 共産主義国で一番偉いとされている人の役職は例えば書記長であって、旋盤工などではありません。 それに、共産主義国での書記長の崇拝され方はまさに「神の様に」です。 これなんかも、プロレタリア道徳が労働者を最も偉いとする事にはウソが有る証拠です。 プロレタリア道徳の共産主義国でも、頭脳が最も偉いとされているわけです。 (4f) 犯罪の動機、何を狙う犯罪か、犯罪の手口、犯罪の結果の順に説明します。 初めに、優れた人と劣った人の間に、固有の優劣の差の事実と、それについての事実認識の一致が有った。 優れた人は優れた人の様に、劣った人は劣った人の様に考え行為した。 優れた人は自分で富み賢く成り劣った人に与え教え劣った人から礼を言われ好かれた。 元始優れた人は太陽だったのである。・・・(4f1) 劣った人の中にその事実や事実認識(なめられる事)をどうしても我慢できない曲がった人が居た。 彼は、優れた人が自分に与え教え優越感を持つ事を許さないだけでなく、優れた人が他の劣った人から自分よりも尊敬されている事が我慢ならず、自分の方が優れた人の様に扱われねばならないと考えた。 ゴマメの歯ぎしりである。 彼は言った「優れた人、それはオレの事だ」と。 ここまでが犯罪の動機です。・・・(4f2) 歯ぎしりのゴマメが狙うのは、優劣の差の事実が事実でなく成る事や優劣の逆転です。 しかし、優劣は各人に固有の属性であるから、その事実を事実でなくする事は出来ません。 本当ならそれが分かった時点で神妙に観念して自分に出来る最善の人生を歩むしかないのですが、歯ぎしりのゴマメはそうはしません。 歯ぎしりのゴマメは劣っているだけでなく曲がっているからです。 歯ぎしりのゴマメは、代替目標として、優れた人が優れている事が表れない様に狙い、優劣の差の事実が実際とは違う様に信じられ語られる様に狙い、優れた人の役を自分が演じられる様に狙う様に成ります。 しかし、これは元の狙いとは違うから隔靴掻痒(かっかそうよう)の様に決して満足が得られる事はない。 かいてもかいても靴の上からかいたのでは足裏のかゆみは取れないのと同じ様に、これらを狙う犯罪を幾ら繰り返しても優劣の事実は変わらない。 その結果、殺すしかないという考えに回帰する。 隔靴掻痒ではかゆみは止まらないから、優れた人が従順であっても、攻撃は際限なくエスカレートして行き、最後は殺そうとする。 まるでヨブ記の様に成る。・・・(4f2.5) ここまでが何を狙う犯罪かです。・・・(4f3) そして、同じ様に曲がった劣った人と意気投合したり、そそのかしたり騙したり脅したりして協力者を集めて力を合わせて目的を達成する事にした。 これらの犯罪を手口の面から見た物が通貨と社会である。・・・(4f3.5) 通貨によって授受が逆転して分かり難くなる。 社会を手段とした手口は、奴隷道徳とその運用である。 奴隷道徳は基調として過度の禁止であり、中には悪ではなく優れを直接禁止する項目も有る。 価値判断の不正直な虚偽の申告に基づくプロレタリア道徳も、これに含まれる。・・・(4f4) 奴隷道徳を守れば優れた人の人生だけが減り、劣った人の人生は元から小規模だから減らない。 運用においては、誰にでも有る善良さを優れた人には無いと不当に認定し、誰にでも有る欠点を劣った人には無いと不当に認定し、そのウソをつき通す為にサッカーのオフサイド・トラップの様に一斉に後退し、優れた人の動きを封じる。・・・(4f5) 殺す為に使うのが、奴隷道徳に違反する態度や行為への罰や措置である。・・・(4f6) 劣った人の全てが悪いわけではないし、優れた人の全てが善いわけではない。 劣っていてもその事実を我慢すれば正義の人だし、優れた人でも自分より優れた人をなんとかしようとすれば犯罪者である。 劣っている人がその事実を何とかしようとしても、自分の自由の範囲内で自分をトレーニングする事によるのであれば、それは悪くない。 また、優れた人でも、もし自分が劣った人だったならその事実(劣っているという事実)を不正な手段で何とかしようとしたであろう人は、本当の善人ではない。 従がって本当は、優れた人か劣った人かが問題なのではなく、本当の事も気に入らなければ認めない人か否か。 認めないの内容は、世の中を劣った人や劣った人として生きて行く人しか住めない世の中にする、という内容。 こういう政治目標を持った人々が諸悪の根源であり、これを劣人主主義者と呼ぶ事にする。 それに対して、自分がどれだけの者か試す冒険を邪魔しない社会の実現を目指す人々を、優人主主義者と呼ぶ事にする。・・・ (4f6.5) つまり、社会という靴を劣った人という足に合わせるべきか優れた人という足に合わせるべきかの点での意見の相違だ。 ヒトラーが優人主主義者だったのか劣人主主義者だったのかを史実に基づいて判定する必要が有ります。 そうすれば世界史の常識が激変する可能性も有る。 優人主主義にも優れた人に劣った人より多くの権利を与える不公平は無いが、「強い者が勝つ」という歪んだ表現で劣人主主義者が表現する様な不平等を優人主主義は結果としてもたらす。 劣人主主義という靴には優れた人という足は大き過ぎて入らないが、優人主主義という靴には劣った人という足も入る。 つまり、優れた人を人間ではないとして植木の枝の様に剪定(せんてい)するのが劣人主主義である。 劣人主主義者は万引きの要領で人間狩りを行なう。・・・ (4f6.7) 劣人主主義者が諸悪の根源であり、劣人主党は詐欺と暴力の悪の政党です。 それは反生命であり、人類というパンに生えたカビであり、社会が掛かる難病です。・・・(4f7) 優人主主義者にとっては優人主主義が民主主義だが、劣人主主義者は劣人主主義が民主主義だと言う。 劣人主主義者は、劣人主主義が本当の社会正義である事は学問的に証明済みの既定の事実だとか、劣人主党の支持率は圧倒的に高い、という意味の事を、聞き手がその真偽を確認できないのを良い事に、受け入れられ易い曖昧な言葉を使って吹っ掛ける。 劣人主主義も優人主主義も、ここで私が命名するまでは、それらを指し示す言葉が無かった。 言葉が無かったという事は、とらえどころが無かった、という事です。 それは、劣人主主義が自分の存在を優人主主義者に知られない様に努めて来たからです。 劣人主党はコソコソ暗躍する秘密結社、地下組織なわけです。 この事は、劣人主主義の力量を推測する為の判断材料に成ります。 公然と優人主主義と戦えば劣人主主義に勝ち目は無い、という事だと思われます。 それは劣人主主義が屁理屈であるからだ、と私は考えます。 最初から地下組織だったのかもしれないし、公然と主張したけれど通用しなかったので地下にもぐったのかもしれません。 その点が国や実在の政党とは違うわけです。 劣人主主義は共産主義に近いし、劣人主党は共産党に近いだろうけれど、劣人主主義を公然と主張して共産党を劣人主党に改名しないのは、それでは共産主義や共産党の信者が離れてしまうからでしょう。 共産主義を支持している人の中には、曖昧な表現で誤魔化して資本主義よりも共産主義の方が優れた人を大切にしてくれると思い込まされてそうしている人が少なくない、そういう人が離れて行く。 つまり、劣人主主義は屁理屈なので、それとは別の受け入れられ易い名目に賛成させる形で騙して協力させる、という方法を使います。 これは代理戦争の一種だと言える。 ここまでが犯罪の手口です。・・・(4f7.5) 先天的な優劣ではなく政治的な選択であるから、劣人主主義対優人主主義の勢力バランスは先天的に優れた人と先天的に劣った人の人数の比では決まらず、味方の支持者を増やし敵の支持者を減らす後天的な活動によって絶えず変化する。・・・(4f8) しかし、先天的に優れた人よりも先天的に劣った人の方が圧倒的に多い事が、この戦いで優人主主義を不利に劣人主主義を有利にする。 それでは劣人主主義の圧勝なのかと言えば、そうとは限らない。 優人主主義にも優人主主義の強みが有るからだ。 その事は、馬券賭博の例で考えれば分かる。 劣人主主義者は、馬券賭博を禁止したがっていて、それに賛成してくれる人を集める。 優人主主義者は「うるせえ、ほっといてくれ、オレの勝手だろ」と言って、それを突っぱねる。 どうです、あなたのこれまでの人間観察の結果から判断して、優人主主義も根強い支持を集めている事や、確かにそういう対立が存在する事、それから劣人主主義者の物騒な雰囲気が思い出されるのではないか。 現実の我々の社会でも、比喩的な意味で劣人主党が与党に成ったり優人主党が与党に成ったり、政治情勢が経済景気の様に変化します。・・・(4f9) 劣人主主義と優人主主義の対立は、人種間の対立や、男と女の対立や、共産主義と資本主義の対立や、国と国の対立や、実在の政党間の対立に反映されているけれど、それらとは完全には一致しません。 また、劣人主主義と優人主主義の対立は、国別ではなくグローバルです。 劣人主主義と優人主主義の対立は、共産主義と資本主義の対立や、国と国の対立とは一致しないのだから、共産主義の推進によって優人主主義を弾圧するだけでなく、資本主義の擁護を名目として優人主主義を弾圧したり、自由主義に従がった現象を装って経済崩落を発生させ優れた人の成功を帳消しにしたり、国対国の戦争で優人主主義者を同士討ちさせて減らしたりする事も出来ます。・・・(4f10) 実際にそうだったのだと私は思っています。 戦争では勇気の有る人から先に死にます。 これは優人主主義者と属性が重なります。 さらに、真犯人である劣人主主義が姿を隠しておけば、それらの被害を全て自分達とは別の犯人によるものである事にしてしまえます。 資本主義のせいだ、共産主義のせいだ、特定の国のせいだ、優人主主義のせいだ、という風にです。 優人主主義を悪者に出来れば、その分だけまた劣人主主義が強く成ります。 ここまでが犯罪の結果です。 この様な構図を原木として彫刻すれば、毎日毎週毎月毎年毎世紀取っても取っても次が生えて来て一向に減らないばかりか増加激化し続ける犯罪は一体どこから湧き出しているのか、という問題の真相を正確に削り出せるのではないか。 そういう大きな視野での構図を考えないと、個々の犯罪の手口ばかり幾ら究明しても、インチキの煙に巻かれてしまって、いつまでたってもインチキの奴隷のままである。 原木を目的にしている犯人にとって個々の犯罪は「何か」でよい。 後手後手で個々の犯罪を出来なくしても無駄である、犯人は代わりの何かを持って来るだけだから。 (4f1) 元始女性は太陽であった、というフェミニズムの言葉に倣って、元始優れた人は太陽であった、と言いたい。 実は、奴隷道徳の悪の方が主人道徳の荒療治に先立ったかもしれないではないか。 先に社会悪というものがあり、このとても抗い難い巨悪に勇気を持って立ち向かったのが、主人道徳の起源かもしれない。 肉体の優れた個人による悪の方が社会悪よりも先だろうけど、その悪を肯定するのが主人道徳ではないはずだ。 この元始悪を押さえ込むために社会が作られ、こんな物で勝てるのかなあと最初は心配されたが、実際にやってみると社会ほど強いものは無い事が分かった、また、社会はどんどん腐敗して行った。 これなら主人道徳は悪ではない。 本当はそうだったのに、それを恥ずかしいから無かった事にしようとするのが奴隷道徳なのではないか。 ダークダックスという歌手グループの「花のメルヘン」という歌があるのですが、そこで既に優れた人と劣った人の対比が認識されていたのかも。 (4f2) 要するに動機としては、実害ではなく自尊心の不満が主である。 現実には、実利上の不公平も存在して、劣った人は自分の不満をそれのせいにするが、そういう不公平を全て取り除いても、逆転させてすら不満は消えない、という事です。 そして、優れている人が優れている劣っている人が劣ってるなんて事はないんだ、優れている人の方が劣っている劣っている人の方が優れている、と合唱する事すらするが、心からそう思う事は出来ない。 何をどうしようが死ぬまで解消され得ない不満だから、これが犯罪の無尽蔵の動機と成る。 曲がった劣った人が感じたのは嫉妬だけでなく屈辱もである。 劣者は優者が自分たちを抑圧してきたからいけないと言う。 それでは抑圧しなければ文句を言わないのでしょうか。 そんな事はありません。 抑圧するからいけないと言うのは、それなら正当な理由に成るからです。 では本当は何が気に入らないのか。 見下される、蔑まれる、劣等感を感じる、ありのままの自分がつまらないことを知られる、これらも気に入らない。 だから、抑圧されなくても、これらが残る限り不満です。 不満なのに、それらでは相手を攻撃する正当な理由には満たない。 満たないから攻撃をやめるのか。 やめない。 しかし、満たないのだから、それは悪である。 それに、抑圧される事を理由にしたのもウソだったという罪も加わる。 ここに来て、劣った人の正体がバレるのである。 (4f2.5) ヨブ記のようだ、という点について。 まず、されない権利が有る事、しない義務が有る事を、だから他者からそれをされる事は無いと考えて安心する事は何の罪でもない事を確認しておきます。 その安心を顔の表情に出す事ももちろん何の罪でもありません。 優れた人がそういう意味で平気な顔をしているのを気に入らないと感じて何とかしようとする性質が曲がった劣った人には有ります。 それで何とかしようと何かすれば、それは罪ですが、少しぐらいなら罪は軽い。 しかし、その何かをされても優れた人が平気な顔を崩さなかったので劣った人が追加の何かをする事については、その様な追加は際限なくどこまでも許されるものでは有りません。 それなのに、曲がった劣った人は、そういう事をする。 追加の何かをしても優れた人が平気な顔を崩さなかったら、その時劣った人はカッコ悪く成ります。 これは、劣った人が優れた人に挑戦して負けた状態だと見なせます。 その挑戦は優れた人の了解を得ずに一方的に行なわれた物なので不正であり、その分だけカッコ悪さは増します。 曲がった劣った人がその負けを取り戻そうとして追加の何かをしたいという誘惑に負ける様子は、あたかも賭博で負けた分を取り戻そうとして追加の賭けをする深みにはまるごとくである。 そして、追加でこれ以上何かすれば人間として最低限守らなければいけない禁止に違反してしまう事に成る、その一線を劣った人は越える。 これが、劣った人が優れた人を人間として扱わなくなり、その事によって人間ではなく成る瞬間である。 その時曲がった劣った人は軽口を叩きへらへら笑いながら、そこに自分達以外には人間は居ないかの様に仲間と談笑している。 屁理屈で誤魔化し、笑って誤魔化すのである。 この段階に至っては、優れた人が平気な顔なのは、平気だからではなく、平気な顔で居る事を被害しない事よりも優先したからです。 しかし、それも、選択の自由であって、何の罪でもありません。 劣った人に加害を許可したのでもなく、言葉でハッキリと「するな」と言ってある。 劣った人の機嫌が悪くなって来る。 もう、ものすごくカッコ悪く成っているし、莫大な罪の負債を背負ってしまったからだろう。 そして、そのキマリ悪さを晴らそうと、優れた人を非難し始めた。 何とその罪状は失礼。 加害の内容が義務を不当に追加する事である場合には、義務が果たせていないという言い掛かりが罪状として吹っかけられる。 特に、他の誰もが義務を果たしているのに、あなただけが義務を果たしていない、という様な罪状を吹っかける。 あなただけが優れているので気に入らないという不満が、いつの間にか、あなただけが劣っている、というウソに転嫁されているのである。 自分達の重罪はノーカウント、優れた人の失礼だけを殺人に比適する重罪ででもあるかのように主張し始めたのだ。 ヨブ記みたいとは、こういう事です。 曲がった劣った人は、優れた人がされない権利が有る事をされないと考えて安心する事を「なめる」という言葉で表現し、なめるという犯罪は重罪なので殺すという報復すら正当である、という屁理屈を立てる。 自分達の犯罪を心配しない、自分達に直面して萎縮しない、卑下しない事はなめるという失礼であり失礼こそが人間最大の罪だと言うのである。 しかし、その失礼への罰として劣った人がするのは、優れた人が自分達の安心を奪ったという事実をでっち上げての安心できる様に優れた人を警察に逮捕させたり精神病院に強制入院させて人間を鈍化させる薬を投薬するという犯罪だ。 劣った人には優れた人を安心させない権利が有る、優れた人には劣った人を安心させない権利が無い、というのは不公平だから成り立たない。 また、優れた人が劣った人からの犯罪を心配しない事を「なめている」と言って許さないくせに、心配したならそれを被害妄想だ精神病だと言って強制治療名目の加害をする点も、屁理屈である。 さらに言うならば、失礼こそが最大の罪ならば、優れた人に最大の復讐をしたければ優れた人に失礼な事をするはずだが、実際にはそうはせず身体を傷害したり殺したりせずにはおかないという態度だ。 この事は、劣った人も失礼の害よりも傷害や殺害の方がずっと大きいと考えている証拠だ。 本当は、人を馬鹿にするとはこういう態度の事だが、 (4f3) ・ 優れた人が死ぬ様に狙う(白雪姫、カインとアベル) ・ 優れた人が劣化する様に狙う(怪我や病気が劣化の具体例) ・ 優れた行ないが発生しなく成る様に狙う。 ・ 優れた人や優れた行ないが優れていると認識されなく成る様に狙う。(先天的に)劣っているとか悪いと誤解される様に狙う。 ・ 優れた人が恩・感謝・謝罪の関係において下に見られる様に狙う。 ・ 劣った人が優れていると認識されるように狙う。 ・ 個人間に固有の優劣差は存在しないと誤認される様に狙う。 ・ 実際には違うのに各人がその優劣に見合った活躍をしていると誤認される様に狙う。 ・ 優人主主義の支持者が減り劣人主主義の支持者が増える様に狙う。 優れた行ないをやめさせる事も、義務の追加やミスリードの具体例。脅迫や強要の場合も有ろう。 優れた行ないを出来なくする事は自由を減らす事の具体例。材料や道具や場所を使えなくするなど。 優れた人や優れた行ないが優れていると認識されなく成る様に狙って、口裏合わせを通用させる。 優れた人を劣化させるというのは、優れた人を外して劣った人を入れる人事の事ではなく、薬物や力学的な力や心労などによって優れた個人の優秀性を内科的や外科的や精神科的に低下させる、という事です。 まとめると優れた人をカッコ悪くし、劣った人をカッコよくする。 自分のせいで自分がこれまでにカッコ悪く成ってしまった時のカッコ悪さのそれぞれについて、優れた人が正確に同じカッコ悪さでカッコ悪く成る様に狙う。 例えば、劣った人が罪を犯して咎められてその様子がカッコ悪かった、それをそっくりそのまま優れた人にも必ず味わわせる。 例えば、劣った人が劣っていると認識されてそれがカッコ悪かった、そのカッコ悪さを必ずや優れた人にも味わわせる。 優劣の事実を逆転させた認識をまかり通させ、優れた人がそれに抗弁してもカッコ悪くなるだけであるような状況をセットアップする。 それでも抗弁が止まらなければ暴力で止める。 つまり、優れているのは私でありお前は劣ってるんだ、という態度が劣った人の態度なのである。 平等平等と言うのは初手であり、目標は自分達が上位になる不平等なのである。 例えば、女性の容姿の美醜を言ってはいけない、と言ってる者達は、まずそう言ってそれに従がわせ、十分に時間が経ってそれが忘れられるのを待ち、それから平気で逆の事を(美しい人を醜いと、醜い人を美しいと)言い出す。 そして今度はそれへの反論が言えなくされる。 これが言論の自由が無い状態です。 容姿の美醜なんてどうでもいい事なら、化粧なんてしないはずだ。 女性は化粧をするし、着こなしにも男よりこだわる。 大事な事だから触れてはいけないと言うなら、それでは、美醜について逆さまな評価がまかり通る様に成るんだ。 (4f3.5) 社会や通貨という道具ないし方法を使っても使わなくても、その社会や通貨が公正ならば、個人の優劣と成功の程度の順位との相関関係は変わらない。 社会や通貨を上手に使う能力の優劣が成功の程度の順位に反映される分だけ変わるけれど、一事が万事みたいに他の能力が優れている人ほどその能力も優れているという傾向も有るだろうし、事後的な修正(彫刻)の基に成る基本(原木)として「変わらない」という認識を置くべき。 この様な事情は、高校物理で習う仕事の原理に例えられる。 機械を使っても仕事(エネルギー)を儲ける事は出来ない、というアレです。 それなのに、曲がった劣った人は社会や通貨を使って順位を変えようとする。 これは、仕事の原理に反例を与える永久機関を作ろうとする様なものです。 そして、順位を変える事が出来た、現行の制度がそれだ、と主張しているわけですが、その様な制度には必ずどこか間違った所が有るはずである事は、永久機関を作る事に成功したという申告には必ずどこか間違った所が有るのと同様です。 また、その事を分かった上で順位を変えようとするなら、それは、最初からインチキをするつもりだ、という事なのです。 社会や通貨を使っても、それらが公正である限り優勝劣敗は何も変わらないけれど、社会や通貨を間に挟んで問題を間接化、複雑化、不透明化すれば、その中にインチキを紛れ込ませても、そのインチキを見破るのが難しく成る、その事を利用してインチキをまかり通そう、という態度がそれです。 「強い者が勝つのではいけないからそうするぞ」という宣言は、インチキしますと自分で言ってる様なものです。 そもそも、結果を理由にルールを決める、という態度が、インチキです。 結果をこうすると決めてるんだったらルールなんて要らないはずだ。 結果をこうするというルールだけで十分だ。 それとは別にルールを置くという事は、そういう態度を不正だと自分で認めている証拠だ。 不正だから、そんな事してません、ルールに従った結果ですよ、とウソをつくつもりだから、ルールを置くんでしょうが。 学校の勉強なんて社会に出たら何の役にも立たない、と批判する人は、こういう事が分かってない。 高校物理で仕事の原理を習う事には、正解の前例、パターンのレパートリーを増やす意味が有ります。 新しい問題を見た時に「これもアレみたいな答えに成るんじゃないかな」という視点を持つ事は、それ無しでは出来ません。 そして、実際にどこが間違っているか見付ける事ができ、それがこのページに色々と書かれていますが、それを見れば、まるで永久機関の屁理屈みたいな稚拙な屁理屈ばかりだと分かるでしょう。 そして、相対性理論は間違っているという言説の屁理屈と犯人像が同じに感じられる。 もともと個人が他の個人から侵略されない為に作られた社会という物が個人を侵略したのでは本末転倒である。 草食動物がライオンに食べられない様にする為に作った社会では草食動物が「やめてください、やめてください」と言いながらライオンの尻尾をしつこく踏み付け「ひええ、お助けを、だもんね」と言いながらライオンを食べる、捨て台詞に「草食動物をなめるなよ」というのでは、何も善く成ってないわけです。 しかし現状はその様な優肉劣食に成っています。 本当は優肉劣食も弱肉強食の一例ですが、優肉劣食であるという実態を覆い隠す為に弱肉強食という言葉が使われているのもインチキである。 社会がするのは、ライオンに草食動物を食べさせない所までで、草食動物にライオンを食べさせたら行き過ぎです。 人間社会でも、優れた人の劣った人を侵略する作用は社会がカットすべきだが、また、社会が優れた人に劣った人を援助させる事もある程度までは妥当だが、そうしてもなお残る優れた人と劣った人の格差を社会が抑圧したり逆転させたりする事は、社会がする犯罪であり、これこそが犯罪の中の犯罪なのである。 その観点から言うと、社会がする犯罪の害に耐えかねての個人の犯罪を社会が摘発して処罰する事なんて、ただの弱い者イジメである。 おカネ(通貨)という物をその存在自体がインチキだと直感した人は多いのではないか。 しかし、第1印象としてはそうであっても、おカネを使い慣れると直ぐにその事を忘れてしまうし、「どこがどうインチキだと言うんだ?」と劣人主主義者から尋問されるのが面倒だったり怖いから言わなくなる。 私の今までの人生経験から言うと、それに加えて、刺客を使った抹殺が仕掛けられる。 私は殺し屋ですといった感じの人が来るのではなく、警察に逮捕させたり精神病院に強制入院させたりする理由をこじつける種類の殺し屋が来る。 即刻別件で解雇されたりする。 私は子供の頃に、父親以外の成人男性から、おカネという物を社会的に許容される物だと承認する様に求められました。 その時に「おカネで必需品を買う事は出来るか?」と質問されて私が「出来ない」と答えると、「正解だ。でもこの事は君と私のふたりだけの秘密にしておこう」と言われた。 「では、世の中に存在するおカネは全部君に預けるから、しっかり管理してくれたまえ」みたいな事を言われた事が私には有るのだが、それは、その時だったかもしれない。 私は自分が幼児の頃の事だと記憶しているが、実際には小学生の頃だったのかもしれない。 おカネのどこがどうインチキなのか、普通は誰も答える事が出来ない。 「カエサルのものはカエサルに」と言ったイエス・キリストも屁理屈の罠にはまらない答え方をするだけで精一杯だったし、アインシュタインも何も言わなかった。 マルクスも交換価値と言ってる時点で既に、おカネに価値が有ると考えており、屁理屈の煙に巻かれている。 あるいは、マルクスは劣人主主義の手先だったか。 それを良い事に劣人主主義者は吹っ掛け放題に吹っ掛けて来たわけですが、おカネはインチキだと直感できる視点を以下に与えておきます。 世の中に存在するおカネ以外の価値の合計をXとし世の中に存在するおカネの総額をYとする時、世の中に存在する価値の合計は X + Y だ、というのが劣人主主義の解釈です。 しかし、これだと、追加で通貨をZだけ発行すると、世の中に存在する価値の合計はたちまち X + Y + Z に増えてしまう事に成りますが、それって変じゃないですか。 これに対して、私の宇田経済学では、おカネはおカネ以外の価値を記録・表示しているだけなので、おカネとおカネ以外の価値を2重にカウントしてはいけない、と考えます。 また、偽札製造は重い罪ですが、通貨発行だってやってる事は同じじゃないか、という指摘も出来ます。 おカネの基本的な弊害は、自分の所有権の外に存在する価値が非常に増量されると自分の所有権が実質上減る(タダ同然に成る)、という点です。 これは、自分の住所の敷地の周囲を深く掘り下げられ、あなたの私有財には指一本触れてませんよ、と言われる様なものです。 確かに、現時点では自分の私有財は何も減ってないんだけど、将来激減する潜在的可能性が非常に高まっている。 資本主義の定義は財の私有を認める事です。 これは、極めて防御的な措置であり、自分の物を他人が勝手に取って行く、という犯罪を表現する言葉を与え、その事によってそういう犯罪を出来なくする。 ところが、その犯人がそれで引き下がらずに、この資本主義制度の枠内で他人の物を勝手に取って行く事が出来る様にする手段として使っているインチキがおカネです。 それは、持ち主が「売りません」という態度を貫く限り無効ですが、一旦売ると成ると、おカネに価値は無いからタダで持って行かれる事に成り、ここで所有権の侵害が発生します。 報酬をおカネで支払われた働きはタダ働きです。 それでも報酬のおカネで働き相当の価値を購入できるよね、という理屈は、他の人にタダ働きさせて返してもらえ、という無限連鎖講の論理なんですよ。 劣った人が優れた人の上に立って支配しそれでいて恩においても下に見られない様子は、川をさかのぼろうとする水泳に例えると直感的にイメージできます。 水泳が優れた人の働きで、川の流れがおカネの流れです。 泳げども泳げども前(上)に進まない。 この批判が常識である事は、金があれば馬鹿も旦那、という諺に如実に表れています。 そうだけれど、馬鹿には金が付かないという法則が同時に成り立っていれば、優勝劣敗は成り立ったままです。 おカネが曲者なのは、誰にどれだけおカネを付けるかが生殺与奪のごとく不合理である点でです。 そして、その事は、もとをただせば、通貨の製造という形でおカネを持つ事が報酬としておカネを受け取る事ではないからです。 例外なくどの者も持っているおカネは全て何かの報酬として受け取ったのであれば、馬鹿は金を持てないのである。 米国のオバマ大統領が任期の最後頃に「乗っ取られるぞー」と発言するのをテレビで聞きました。 一体何の事だろうか。 日本語吹き替えでしたが、きこりが山で「倒れるぞー」と叫ぶのと同じ語調でした。 川をさかのぼる水泳が水流という無体なハンディキャップを克服する事を「(社会を)乗っ取る」と表現しているのではないか、と私は思う。 生殺与奪の「与」の様に味方におカネを付けて、ハイこの範囲の人が旦那です、と勝手に決める事が本当は「乗っ取る」のはずである。 これは実質上は、民間人を命令する権利の有る人と命令に従がう義務の有る人に分ける事であり、法の下の平等の否定です。 それを「そんな事ありませんよ、命令する人は命令される人におカネを払うから痛み分けだし、嫌なら契約しない自由は命令する人にだけでなく命令される人にも有ります」という形式で偽装するのがおカネの屁理屈です。 それと同時に、生活手段を予め取り上げておカネで買わなければ生活できないので命令される人は誰もが契約せざるを得ない様にしてあるわけです。 被害者が生まれる前に奪っておけば泥棒に成らない、という屁理屈です。 それが屁理屈である事は、被害者が生まれる前に予め人権を否定しておいてもそれは不当ではなくならない事を考えれば分かります。 そのインチキに文句ひとつ言わず飛車角落として勝って見せたら、それを「乗っ取る」だと言われた、というのでは逆さまだ。 オバマ大統領の類似の不可解な発言には「頼むから良き敗北者に成ってくれ」というのも有った。 誰に向かって言ったのだろうか。 負けてしまった人に悪人に成らないでくれと言っていたなら分かるが、勝ちそうな人に頼むから負けてくれと言っていたなら「それが大統領の言う事か」との批判は免れない。 「政府の高官よりも民間の大成功者の方が偉く成れるのは間違っている」というのも有った。 これは民主主義の露骨な否定だ。 優勝する権利(=公平公正なルールの適用を受ける権利)はどの1人にも等しく存在する、というのが優人主主義の意味での民主主義だ。 お前は天才だから駄目だ、というのも、これに反する。 公務員はスポーツにおける審判員の様な存在であり、反則しない範囲内でプレイヤーが自分のプレーで審判員よりも尊敬されようとする事は、審判員が誤審しない事によってプレイヤーより尊敬されようとするのと同様に正当であり、どの1人にも審判員に成ろうとするかプレーヤーに成ろうとするか選択の自由があり、採用基準は公平公正でなければいけないし、どちらの方が尊敬される結果に成るかを理由に制度を決めるのは民主主義に反する。 資本主義という言葉は、私達が経済評論などで耳にする時には、この様な所有権の侵害を強力に推進する力が資本主義だ、という意味で使われていますが、それは本来の資本主義とは正反対です。 言葉の意味を逆転させるという劣人主主義の犯行手口の特徴が、ここにも出ているわけです。 これが、何十世紀にも渡って世界が騙され続けて来たおカネ詐欺です。 参考:宇田経済学@持論@学問@宇田英才教室。 私の宇田経済学では、全ての人の所持金の残高の合計が常にゼロに成る様な通貨制度を考えます。 残高がマイナスに成り得る通貨制度です。 これは実際問題としては電子マネーを使わないと実現できないだろうけれど、原理的には全員に例えば紙幣を百億円分持たせておいて、持っている紙幣の合計金額から百億円を差し引いた結果が残高だと定義する方法でも実現できます。 ついでの話ですが、国が借金を返せなくなる財政破綻の話をよく耳にするので私も素人なりに自分で考えて見ました。 財政破綻の心配はない、という意見も良く耳にします。 私も、それに近い結論に至りました。 私の考えは以下です。 円建て国債による借金の限界の問題は実質上は、借金の限界の問題ではなく通貨の追加発行の限界の問題である。 通貨の追加発行には限界が有るから円建て国債による借金には限界が有るが、それは、借金の限界という言葉で一般に想起される様な限界よりもずっと青天井に近い。 円建て国債は円本位制の第2通貨だと見なせる。(金本位制という言葉に倣って円本位制という言葉を私が作った) 金と違って円なら政府は幾らでも用意できるので、国債に形式的な制限は無い。 もっと飛躍すると、国債の定義も為替相場制に切り替えれば、返済そのものが必要ではなくなる。 これは、政府が国債を何円相当の通貨として使えます、と法定するだけでよい、という事です。 この事は、おカネの本質が無限連鎖講である事を良く象徴しています、借りた人が返さず第三者に返してもらえと言うんだから。 従がって、国債を発行する事は実質上は円を追加発行する事とほとんど同じであり、円を追加発行するという施策の代わりに、同等の効果を持つそれより小さな小手先の施策で済ませた物が国債の発行だ、と考える事が出来る。 ただし、政府と日銀は別人なので、国債を買い戻す為に円を追加発行するとは、政府が日銀に国債を売る事じゃなかったっけ。 これだと、円を追加発行しても政府の形式的な借金は減らない事に成る。 日銀からの借金は有っても無いのと同じだ、とするなら実質上の借金は減るけど。 日銀からの借金も任意ではない、のなら、そこから来る限界も考えねばならなく成る。 国債を金融資産だとする考え方には、おカネとおカネ以外の価値を重複してカウントするな、という私の批判を適用してみる必要が有る。 通貨の追加発行の限界は、普通インフレという言葉で語られるが、私の宇田経済学の言い方だと次の様に成ります。 通貨の発行はおカネ以外の価値を徴税する事と実質上は同じである。 従がって、その限界は、国民のおカネ以外の価値を納税する能力や納得を超えて徴税する事は出来ない、という限界です。 これは、例えば、戦時中に軍艦を作る為の鉄を調達する為に政府が通貨を追加発行してそれで国民から鉄を買おうとしても国民には出せる鉄がもう残ってなかった、といった限界です。 おカネはおカネ以外の物事を取り仕切ってるだけなので、おカネ以外の物事が力学や生理学や化学の法則に反した動きを出来ないのを、おカネの計算でどうにかする事は出来ないわけです。 インフレという言葉で済ませたのでは、この当たり前の事を忘れてしまう。 1人1日分の食費が現金輸送車1台分ほどにも成ってしまう、というイメージで認識されるインフレなんて原理的困難ではない。 全てカード決済にして、銀行口座の残高は3×10^26円みたいな形式で表記すれば、数字が大きく成るのは問題ではない。 インフレも、収入の金額が増えるのと物価の金額が増えるのが同時でなければ、実害に成り得る。 しかし、宇田経済学の観点から言うと、税収の不足を通貨の追加発行で補う事の限界の本質は以下である。 通貨を追加発行する事は無限連鎖講方式でおカネ以外の価値を徴税する事に等しい。 政府の財政とは税収を財源として国民に何かを買い与える事だから、つまるところ、それは、いずれかの国民から別の国民におカネ以外の価値を移動させる事の繰り返しと見なされる。 その意味は、義賊という言葉と割り勘という言葉で把握できるだろう。 富の再配分なら義賊、受益者負担の原則に従がう場合は割り勘です。 税収が足りないとは、その移動においておカネ以外の価値を奪われる人と与えられる人の少なくとも片方に無理が生じる、という事です。 そんなに奪われるのは納得できないとか、そんなに奪われたら死んでしまうとか、もっと与えられないと納得できないとか死んでしまうとか、そういう無理です。 通貨の追加発行によってそれを補う事は、おカネ以外の価値の足りない分を政府が出すという事ではなく、おカネの徴税とは別口でおカネ以外の価値を徴税してそれを国民にふるまうという事です。 従がって、おカネの最善の徴税では足りないというのがギリギリの厳密な意味でもし本当なら、通貨を追加発行しても立ち行かない。 また、いっその事おカネの徴税を全廃して通貨の追加発行だけで財政を運営する、という手も考えられます。 そうすれば立ち行かない事が立ち行く様に成る、という事は有りませんが。 因みに、宇田経済学においては価値とは1人については、 (これから死ぬまでに売るつもりの価値量) ≧ (これから死ぬまでに買うつもりの価値量) - (現在の所持通貨残高) の事だと考えます。 これが経済全体への各人のアウトプット能を表す電池残量の様な意味を持ちます。 この電池残量がゼロに成った人は経済的に死んだ人であり、負(マイナス)に成った人は徴税魔です。 それは、それらの人(泳いで水流をさかのぼり切った人)の全く正当な権利だけれども、そういう人は他の人にとっては死んでくれた方が都合がよい存在です。 その事が原因でそれらの人を殺す犯罪が存在しているのではないか、と私は疑っています。 殺すとは限らず、病気にして医療費支出の必要を生ぜしめ経済的に生き返らせる、という犯罪も有るだろうと思います。 この様なとても許せない犯罪も、劣った人が優れた人にする犯罪です。 そして、犯人の中核も経済的に死んだ人の集団です。 劣人主主義が社会の腐敗であるという構図に成っているわけです。 他の人が働いてる時に働いていない人(泳いで水流をさかのぼり切った人)が居るのは正義に反する、と劣人主主義者は言いますが、そう信じ込ませて自分達が負けない様にしている劣人主主義の主犯は買うばかりで売らない人(上から水を流している人)です。 上記の「おカネ以外の価値を奪われる」は、宇田経済学の用語法では「益を売る」と表現され、宇田経済学では価値という言葉は「これから死ぬまでに売るつもりの益量」という意味で使われ、売買される益を価値とは言いません。 おカネの徴税によって所持金残高を減らされた人は、今後売るつもりの益量を増やすか、または、今後買うつもりの益量を減らすか、少なくともどちらかが必要に成ります。 この事を「価値を奪われる」と書きましたが、正しくは宇田経済学の用語法では「価値を増やされる」「与益義務を増やされる」「受益権を減らされる」という言い方に成ります。 価値を増やされる事は電池の充電に相当します。 プレイヤーが与益量を増やさず受益量を減らす選択(買い惜しみ)をすれば景気が悪くなります。 これはおカネの徴税の欠点です。 しかし、通貨の追加発行によっておカネ以外の価値を徴税する方式でも今度は、買うのが嫌に成るという形ではなく、売るのが嫌に成るという形(売り惜しみ)で景気が悪く成るだろうと思われます。 おカネの計算をどう工夫しようが立ち行かない状況と言うのは、各人が売るつもりの益よりも買うつもりの益の方が多い状況です。 つまり、全員が生産するよりも多く消費するつもりで居るならば経済が立ち行かないのは当然です。 その部分をおカネで何とかしてあげましょう、というのは無理なのです。 (これからある年月日までに売る益量)の全員分の合計は、(これからその年月日までに買う益量)の全員分の合計に必ず正確に一致します。 もし仮に、 (これからある年月日までに売る益量) ≧ (これからその年月日までに買う益量) - (現在の所持通貨残高) という式が例外なく各人に対して収支の正当性の十分条件を表すならば、どの人も、 (これからその年月日までに買う益量) > (これからある年月日までに売る益量) ≧ (これからその年月日までに買う益量) - (現在の所持通貨残高) という選択をしても、十分条件は満たされますが、これでは、 (これからその年月日までに買う益量の全員分の合計) > (これからある年月日までに売る益量の全員分の合計) である事に成ってしまい、これは、 (これからある年月日までに売る益量の全員分の合計) = (これからその年月日までに買う益量の全員分の合計) である事と矛盾します。 従がって、背理法によって、 (これからある年月日までに売る益量) ≧ (これからその年月日までに買うの益量) - (現在の所持通貨残高) という式が例外なく各人について成り立っていさえすればよいのではない、と分かります。 それなのにそれでよいのだと誤解させるのがおカネ詐欺であり、みんながこのおカネ詐欺に騙された結果、 (これからある年月日までに買うつもりの益量) > (これからその年月日までに売るつもりの益量) ≧ (これからその年月日までに買うつもりの益量) - (現在の所持通貨残高) という狙い方をする人が非常に多く成り、その結果、 0 < (これからある年月日までに買うつもりの益量の全員分の合計) - (これからその年月日までに売るつもりの益量の全員分の合計) ≦ (現在の所持通貨残高の全員分の合計) という風に成ってしまっている。 つまり、本来は一致しなければいけないはずの(これからある年月日までに買うつもりの益量の全員分の合計)と(これからその年月日までに売るつもりの益量の全員分の合計)の間に最大で(現在の所持通貨残高の全員分の合計)だけの乖離(かいり)が生じている。 経済全体に蓄えられている価値(電池残量)の合計は(これからその年月日までに売るつもりの益量の全員分の合計)だと考えられる。 この価値の実に最大で所持通貨残高の全員分の合計だけの空洞が有る、それなのに、価値の実は中まで詰まっていると誤解されている、という事です。 これを宇田経済学では第1種のペテンと呼びます。 この事が、宇田経済学で所持通貨残高の全員分の合計が常にゼロである様な通貨制度を考える理由です。 第1種のペテンは、現行の通貨制度によって各人が騙され錯誤している状況です。 この錯誤は各人の納得に影響を与えますから、私人間の商取引への納得も、税制度への納得も、現状の納得は本当の納得ではなく「うっかり同意してしまっている」なのだ、という事です。 つまり、出来ない事をおカネで何とかしてあげましょう、ハイ出来ました、何か変だぞ、どこが?分からん、まあいいや、でずっと来ているのが現行の正定値通貨制度なわけです。 (現在の所持通貨残高) = (これまでに売った益量) - (これまでに買った益量) である人は、 (これから死ぬまでに売るつもりの価値量) ≧ (これから死ぬまでに買うつもりの価値量) - (現在の所持通貨残高) であっても、 (生まれてから死ぬまでに売るつもりの価値量) = (生まれてから死ぬまでに買うつもりの価値量) が成り立ちます。 誰でもそうじゃないの、という意見が間違っている証拠が、 (現在の所持通貨残高の全員分の合計) > 0 である事です。 つまり、 (現在の所持通貨残高の全員分の合計) > 0 である事は、世の中に (生まれてから死ぬまでに売るつもりの価値量) > (生まれてから死ぬまでに買うつもりの価値量) である人と (生まれてから死ぬまでに売るつもりの価値量) < (生まれてから死ぬまでに買うつもりの価値量) である人の2種類の人が居る事を意味し、 (現在の所持通貨残高の全員分の合計)が巨額である事は、その不公平が甚だしい事を意味するわけです。 そして、これが、劣人主主義者が優れた人の台頭を防ぐ為に狙いすまして行なっている社会犯罪の最たるものなのです。 (これからある年月日までに買う益量) > (これからその年月日までに売る益量) ≧ (これからその年月日までに買う益量) - (現在の所持通貨残高) という選択をする事は、どの人にも許されているとされていますが、全員がそういう選択をする事は不可能だ、という事情は、面積が99平方メートルの敷地について百人が1人1平方メートルの使用権を平等に持っている状況に例えられます。 その場合、必ず少なくとも1人は1平方メートル取れない人が出て、その人はそれを権利侵害だと言いますが、それを聞いた他の人は、権利侵害じゃなくてあなたが上手く取引しないからだよ、と反論する、また取引のせいじゃないと考える本人も、3平方メートル取っているアイツのせいだ、と誤認する。 しかし本当は、百人の中の誰かの土地の取り方が不当だからではなくて、99平方メートルしか無い土地の使用権を百人に1平方メートルずつ与える、という設定が間違っているのである。 3平方メートル取っている人が居ても、0.5平方メートル分しか権利を使用しなかった人が他に4人居れば、3平方メートル取った人のせいではない。 ウソップ童話にでもすればいい様な話だ。 我々の住んでいる社会には、この様な原理で必ず争いが生じて被害者のひとりがババを引かされて加害者だと誤認される様に設定が仕組まれている所が有る。 意図的に設定をそうする犯罪を私の相対正義論ではセットアップ犯と呼ぶ。 優れた人どうしを同士討ちさせる劣人主主義の手口のレパートリーには、これが含まれるだろう。 (これからある年月日までに売る益量の全員分の合計) = (これからその年月日までに買う益量の全員分の合計) という式が必ず正確に成り立つから、均して考えると、どの人も貯金残高を変化させない、自分の貯金残高はゼロなんだと思って取引する事が望ましい。 本当はそうなのに、おカネで益を買った元祖は、貯金の分だけ豊かに成れますよと言って売る人を騙している。 騙された人が、自分は貯金の分だけ豊かに成ってるんだと考えて満足し、本当にそうなのかどうかを確める為に貯金で益を買う事をしない限り、そのウソはバレない。 しかし、貯金で益を買おうとする人がドドッと殺到すると、そこでウソがバレる。 買おうとしても買えないからだ。 おカネで益を買った元祖は、その事を恐れている。 自分がつかませたおカネという不良債権が「話が違うじゃないか」性の不発弾のごとき物である事にいつどこの誰が気付いてそこから火の手が上がるか分からない事に、気が気じゃない。 貯金の額がある程度以上大きく成ると、貯金で益を買ってみようという気が起きるに違いない。 そう成る前に、何としても、気付かれない様なやり方で貯金を失わせる必要が有る。 こう考えるはずだ。 ウソつきは泥棒の始まり、とはよく言ったものだ。 経済の存続には経済成長が必要だ、という定説が私には前々からよく理解できないのですが、経済成長が無いとこのウソがバレてしまうからではないか。 例えば人体を考えるとき、成長しなければ死んでしまうという心理も生理も存在しない様に思える。 だから、経済は成長しないと死んでしまう、というのは、正定値通貨制度に限定しなければ必然ではないのではないか。 経済成長によって売買を増加させれば貯金の価値が相対的に低下するのかも。 インフレによって貯金の価値を目減りさせるのも、貯金を失わせる手段の1つに成る。 金利や買い叩きにも下流の人の貯金を増えなくする働きが有る。 貯金で益を買うのでも、まだ通貨が普及していない経済圏の人から買い始めるのであれば、それは通貨無限連鎖講の延命につながる。 通貨無限連鎖講は、常に上流の人が下流の人から益を買い続けるのであって、下流の人が上流の人から益を買おうとした時点で停止してしまうのである。 本当は、金は天下の回り物、であるはずなのに。 下流の人が上流の人から益を買おうとするのを防ぐ為には、経済成長や経済圏の拡大で逃げ続ける必要が有るのだろう。 そして、そのせいで地球環境はボロボロに成って行っているのである。 これは、自分が負けない様にする為に公の物に手を付けたり第3者を巻き込んだりして決着がつかない様に逃げ回る、という劣人主主義者の行動パターンの一例です。 例えば相対性理論について、それが成立した時点で自分はアインシュタインに負けたと潔く認め、次の試合で勝つ事を目指すのが優人主主義者の態度であるのに対して、劣人主主義者は「負けてないんだ」「負けてないんだ」といつまでも否認を続け、論点を増やして議論を拡散し、収束を妨げるのである。 だから優人主主義者には有る成長が劣人主主義者には無いのだ。 将棋で詰められた時に投了せずに縦も横も1行ずつ将棋板を拡張して試合を延長する様な態度が劣人主主義者にはある。 私の説だと物を買えなくて困るはずなのに、実際には大抵の人は物が売れなくて困っている。 この点について考えてみた。 まず、貯金が増加して益を買えなくなる。 そこで、経済圏を拡大して、旧経済圏の外から貯金で益を買い始める。 あるいは先手を打って、益を買えなくなる前に、経済圏を拡大して、旧経済圏の外から貯金で益を買い始める。 すると、貯金が減って、買う益の量と同じだけ益を売らなければいけなくなる。 ところが、既に益の一部を旧経済圏の外から買う習慣に成っているので、旧経済圏の中の人が益を売ろうとしても買う益の量より少なくしか売れない。 これが、現実に起こっている人手不足→外注→失業問題の正体なのではないか。 (4f4) 劣った人がその出発点として選んだのは、優劣の差について事実認識は一致していない、という虚偽の申告をする事であった。 善悪の判断は事実がどうであるかによって左右されるから、この虚偽の申告に基づけば、優れた人を悪いと偽って判定する事が出来る。 また、劣った人には出来ない優れた人の優れた行為を偽って悪いと判定し、悪いのだからしてはいけない、したら暴力で罰するぞ、という不当な禁止を、暴力で競っても優れた人に負けるくせに劣った人は、優れた人が虚偽の善悪判断に騙されて控え目に成る作用と劣った人の人数が多い事に依拠して、通用させる。 その結果優れた人の優れた行為が見られなく成ったのに、その事を優劣の差が無い証拠だと劣った人は詭弁する。 学問の真骨頂をこの世に存在しないかのように言う事は、笑って済まされる事では無いんですよ。 お化けと違って学問は実在してるんですから。 それを無いと言われる事は、人を見下すとか、そんな不徳の比じゃない。 無いと言われるだけじゃなくて、経済的にも学問が台頭しない様に不公正が有ると成れば、ますますです。 学問で為すところ有れる人に学問の代わりに他の仕事をしろと言うのが「なめとるんか」「オレを誰だと思ってるんだ」「黙ってりゃここまで馬鹿にされるとは思わなかった」と批判されるべき事であって、そう批判する人が「他人の仕事を馬鹿にしやがって」と批判されるのでは本末転倒です。 また、そうでない人も、ホンモノの学問を一度見たら、学問の真骨頂を知ったら最後、もう他の仕事はある程度以上熱心にするには値しないと感じる様に成るでしょう。 本当は、食べて行く為にそういう仕事を仕方なくしなければいけなくなった人にその程度を超えて熱心に働くように要求する事は、これは人権の侵害だと私は思うが、実社会の実態はその基準に到底合格できないレベルであるばかりか、なめとるんか、そうは問屋がおろさないんだよう、と発言する態度でそういう世相に加担する人まで居て、それが凡庸人の普通でありさえする。 本当は、仕事を馬鹿にする事は人を大切にする事、仕事を大切にする事は人を馬鹿にする事です。 何様だと思ってるんだ、という人を馬鹿にする台詞を思い出せば、その事が鮮明に分かります。 なのに、仕事をなめとるんか、と言えば、まるで正しい事を言ってるかの様に聞こえる。 これは詭弁です。 (4f5) 劣った人は優れた人には罪を犯してもらわないと困るんです、それ以外に自分達が勝てる事は何も無いんだから。 これは物騒だ。 そこで、道徳の基準を埋め合わせに必要なだけ恣意的に吊り上げて、それに基づいて優れた人にケチを付ける。 そして、相手を悪者に仕立て上げる勝負で勝てる者が最も強いという先述した理屈によって、優れた人でもそれに抗う事が出来ない。 しかしルールを厳しくすれば劣った人は自分たちもルール違反で罰せられてしまいます。 自分で自分の首を絞める傾向は残りますが、ルールの吊り上げをエコヒイキとセットで行なう事によって、優れた人に相対的に勝とうとします。 また、優れた人だけが違反するルールつまり、悪ではなく優れを抜け抜けと直接禁止する事によって、同じ目的を達成しようとします。 これらが劣った人による煙に巻く詭弁であり、優れた人の動きを封じるだけでなく罰や措置を名目に加害する事自体も目的です。 親切とか、謙遜とか、中庸とかいう奴隷道徳の徳目に、その素地は既に現れているわけです。 エコヒイキの例として証明責任の恣意的な付け替えが挙げられます。 これは、Aが自分達に不利な事実である場合にはAである事を証明できなかった事をAが偽である証拠だとする、Aが自分達に有利な事実である場合にはnot Aである事を証明できなかった事をAが真である証拠だとする、という屁理屈の極め付けです。 何にでも根拠を求めてキチンとしているかに見える態度の多くは、実はこのインチキである場合が多い。 2021年頃までにエヴィデンス(証拠)という言葉を耳にする頻度が急増していますが、これは、発言の為に必要な証拠の確からしさの基準が無断で急に吊り上げられた事を意味します。 証明責任の恣意的な付け替えというエコヒイキは、基準のこの吊り上げとセットで用いられます。 これと似た屁理屈に、「全ての」と「存在する」のすり替えが有ります。 これは、全ての日本人は悪い人です、という主張と、日本人の中には悪い人も存在する、という主張を故意に混同する屁理屈です。 日本人の中には悪い人も存在する事が証明された事をもって、全ての日本人は悪い人ですと結論するタイプの屁理屈です。 これは分かりやすいけれど誰もそんな屁理屈は言わないよ、と言われるかもしれません。 しかし、「~だったら何をやって(言って)もいいのか」という言い方なら、あなたも聞いた事が有るのでは無いか。 例えば、Aさんが「Bさんは馬鹿だ」と言った。 Bさんが「なんて事を言うんだ」と言った。 Aさんが「だって本当の事じゃないか」と言った。 Bさんが「本当の事なら何を言ってもいいのか」と言った、というケースです。 この場合、Bさんは実質上「本当の事の中には言ってはいけない事も存在する」という法則を反論として述べています。 Aさんの「だって本当の事じゃないか」という発言は実質上「本当の事なら何を言ってもいい、だから、Bさんは馬鹿だ、という発言もOKだ 」という意味です。 だから、これへの反論としては、Bさんの反論は有効です。 しかし、では、「本当の事の中には言ってはいけない事も存在する」という法則だけで「Bさんは馬鹿だ」という発言をいけないとする事 は出来るでしょうか。 出来ません。 「本当の事の中には言ってはいけない事も存在する」という法則は、本当の事の中のどれかが言ってはいけない事だと言ってるだけで、そ れはひとつとは限らないけれど、「Bさんは馬鹿だ」という事がそれだとは言っていない。 個別の言行を「~だったら何をやって(言って)もいいのか」という言葉で間違っているとする理屈は成り立たないのです。 そして、この成り立たない理屈をテコにして、色々なルールが歪められて来ました。 「本当の事なら何を言ってもいい」を反証しただけなのに、それを根拠に本当の事の中で言ってはいけない範囲を恣意的に際限なく拡大して行く、そういう態度です。 「本当の事なら何を言ってもいい」の否定だけからでは、言ってはいけない範囲は何も出て来ないし、もともと「本当の事なら何を言ってもいい」が無制限に正しいわけではないという主旨なのだから、例外は有るけれど原則としては「本当の事なら何を言ってもいい」というのが正しいはずなのに、言ってもいいかいけないかに本当の事であるかないかは全然関係ないぐらいの所まで押してくる、そういう種類の屁理屈が横行してますね。 これは、角を矯めただけで牛が死んだ、とウソをついてもそれがウソである事を見破れる人が居ないのを良い事に、角を矯めた後で別の方法で牛を殺す、そういう犯罪です。 角を矯めて牛を殺す、という諺が有ります。 わずかな欠点を直そうとして、そのもの全体をだめにしてしまうこと、だそうです。 (4f6) 圧政で抑圧する事を悪だと言うのは分かります。 しかし、親切でない事や謙虚でない事まで悪だと言ったのでは、ルールーが厳しすぎます。 何かを悪だと定める事は、それへの罰や措置を悪ではないと定める事と等価です。 つまり、ルールが厳し過ぎるという事は、別の悪い事を禁止するルールを緩め過ぎる事と等価なわけです。 この部分が奴隷道徳の詭弁の中心部分なので、ここで少し詳しく説明しておきます。 内面の自由というものは、言い換えれば他者の内面への干渉の禁止です。 逆に、他者を尊敬しなさいというルールは、内面で他者を尊敬しない事もいけませんと言って禁止する事ですが、これは内面への干渉を禁止しない事です。 この様に、自由すなわち許可する事は禁止する事であり、禁止する事は許可する事であるわけです。 ただし、時間的順序の事が有るので、罰が罪より重くてはいけないとは言えません。 法律で刑罰の上限が定められている事が、時間的順序が禁止と許可の関係にどういう影響を及ぼすかに答えた物だと考えられます。 しかし、それではまだ考え尽くされていない、と私は思います。 考え尽くされていないという事は、その事を利用した犯罪が可能だという事です。 可能なら実際に有るものです。 つまり、同じ事を言うのに、自由という言葉を使うと不利な時には禁止という言葉を使い、禁止という言葉を使うと不利な時には自由という言葉を使えば、他者を何でも自分達の思い通りにさせるのが正しい、と主張して、それでいてもっともらしく聞こえるのである。 しかし、他人の内面を禁止するという事は自分の内面を他人の内面にまで押し付ける、という事で有るから、当然間違っています。 つまり、どこまで自由かの基準を考えるときには、各人を中心として自由の範囲を広げて行きぶつかり合った所で公平に折り合いを付ける事によって決めるのが正しい、と考えられ、これが多分「公共の福祉」という法律用語が意味する事です。 他者の自由が自分の内面にまで及ぶとか自分の自由が他者の内面にまで及ぶなんて以ての外なわけです。 それなのに、それを「内面がコレコレであるのはいけない」という言葉で表現すると、まるで正しい事を言ってるかの様に聞こえる。 これは詭弁です。 言論の自由は暴力の禁止とほとんど同じです。 なぜなら、何らかの言論を禁止するとは、その言論に対して暴力で制裁を加えると言う事だからです。 それを禁止すると言う事は言論の自由を認めるという事に等しいわけです。 あれを言ってはいけない、これを言ってはいけない、と言うともっともらしく聞こえますが、言ったらどうするんですか、と聞けば、いけないものはいけないんだ、とか何とか言って誤魔化されるんじゃないか。 つまり、うしろめたいわけです。 言論には言論で対抗する、そうすれば段々と本当の事が分かって来るものです。 デマを信じた人が人殺しをしてしまった、という理由で言論の自由を減らそうとする動きが有ります。 言論に対して暴力では釣り合わないから、暴力に対して暴力という論理を立てているわけです。 しかし、言論を取り締まらなくても、デマに対しても言葉で「それはデマだ」という発言が有り、さらにどんな意見もデマかもしれないので早まるな、という注意が普及していれば、言論の取り締まりと効果は同じです。 デマは言論とは言えないから暴力で罰する必要が有るけれど、それは本当にデマならばの話であり、もしデマで無かったら今度はその処罰の方が早まった過ちに成ってしまいます。 ここで言う暴力は解雇も含みます。 暴力とは、主に肉体に加えられる強制力ですが、それが間接的であっても暴力です。 昭和の時代には「お前・・・した(言った)だろうが」と責められた人が「だったら何なんだよう」と言い返すのが多く聞かれました。 別に隠す必要も無い、しても(言っても)構わない事じゃないか、というわけです。 親切とか、謙遜とか、中庸ならまだ理解可能ですが、主人道徳が肯定する徳目を悪と定めるに至っては、それは善悪の基準として間違っており、理解不能です。 つまり、それは、優れを悪と定めるという事だから、優劣と善悪を混同しており、全く意味を為さないわけです。 (4f6.5) 劣人主主義は優人差別だが、優人主主義は劣人差別を含まない。 劣人主主義は、優れの程度や劣りの程度が最も平均的な人が結果的な実勢において優勝者と成る事が正義である、と定める。 優人主主義は、公正なルールに従った結果は如何なる結果も正当である、と定める。 しかし、どれだけ平均に近いかを普通度と呼ぶ事にすれば、普通度が平均である事と普通度が最高である事は食い違うから、劣人主主義の規定は内部矛盾を含む。 劣人主主義は、お前の間違いも許すからオレの間違いも許せ、という態度。 優人主主義は、オレも間違えない様にするからお前も間違えない様にしろ、という態度。 劣人主主義では、関係する事は義務である。 優人主主義では、関係を拒否する事は最大限の譲歩をした後も残る最低限の権利である。 劣人主主義の許し合う義務は、許し合いと言えば聞こえは良いが、言い換えれば、ルールの否定であり、無法の肯定であり、さらに実際には、強い者が弱い者に自分の罪を許させ弱い者の罪を許さない、という結果に文句を言わせないという態度である。 劣人主主義者は許される事によって立ち、優人主主義者は正しさによって立つ。 劣人主主義を特徴付ける発言は「ありがとう」「ごめんね」であり、優人主主義を特徴付ける発言は「これで文句は無かろうが」である。 劣人主主義者は幸福は与えられた物であり成功なんて生意気な物は存在しないのでないと許せないと考える。 優人主主義者にとって幸福は成功によってもたらされる。 つまり、劣人主主義は他力本願であり、優人主主義は自力本願である。 人はひとりでは生きて行けない、人生は思い通りに成らない、といったキャッチフレーズは、劣人主主義者から優人主主義者への嫌み、呪詛であり、それがテレビコマーシャルで頻用される事は、公共の電波を使ったヘイトプピーチである。 また、本来は優人主主義の手本と見なされるべきスポーツの個人種目の優勝者に「みなさんのおかげです」と言わせるのも、劣人主主義の横暴である。 スポーツのチャンピオンは優人主主義の正しさを身をもって証明して見せたのに、なぜ結論として劣人主主義への忠誠を誓わされるのか。 滑稽な事に劣人主主義には間違える義務という物が有る。 間違いを許せと言うが、間違える義務への違反は許さない。 ほら見ろ、やっぱりな、劣人主主義者もルールを持っていてそれへの違反を許さないのだ。 しかも、間違えない事を許さないのでは、間違えた事を許さないよりも悪いじゃないか。 女優の大場久美子さんがテレビで「若い頃は間違えないとみんなが助けてくれなく成ると言われたので歌唱で故意に音程を外して歌っていた」というのを聞いた。 私も子供の頃に「間違えないとみんなが助けてくれなく成る」という話を聞いた事が有る。 たぶん母から聞いた、スター級の人はそうだ、という話だった。 それを聞いた子供の私は善意に解釈して、間違えなと周囲の人から助けが必要ないと思われて助けが得られなくなる、でも、そういう人は本当に何でも自力で出来るから、単独登頂を目指すのも良いもんだ、と思った。 しかし、その後の人生経験で、みんなが助けてくれなく成るというのは、それだけではなくて、同時に他者の助けが必要に成る様な犯罪を仕掛けられる様になるという事なのだ、そう言うわけにはいかないので「みんなが助けてくれなく成る」という言い方をするのだ、という事が分かった。 到底容認できない話である。 劣人主主義においては、職位は公共ビルの1室のごときものであり、どの部屋も、その職業に有能な人の方があまり有能でない人よりも占有する権利が大きいなんて事は無い。 劣人主主義においては、どの部屋に誰が入るかはみんなで決める事である。 これは、全員が公務員だという社会主義の状態だと言える。 優人主主義においては、職位は取引相手との私的な関係のみで決まる。 これは、結婚は両性の合意のみによって成立する、という日本国憲法の規定と見比べればよく理解される。 つまり、優人主主義では、AさんがBさんを先生に選び、その授業料だけでBさんが生活できるならばBさんの職業は先生です。 それに対して、劣人主主義では、あなたの職業が百姓なのにBさんの職業が先生だなんて許せますか、と第3者が質問され、許せませんという返答が有ると、それがBさんの境遇に反映される。 劣人主主義は、犯罪への対処は被害者本人が行なってはいけない、と定め、被害者本人が自分で犯罪に対処した場合、その罪だけを罰し、対処の対象と成った元凶の犯罪は無罪放免となるし、警察官でも弁護士でもない第3者が対処してくれた場合にも、その第3者の行為は正当だとされる。 優人主主義は、犯罪に対処する権利は被害者本人に最も多く有る、と定め、第3者の方が被害者本人よりも介入の正当性を厳しく問われるし、基本的に対処の対象と成った元凶の犯罪よりも対処の方が大きな罪だとされる事は無い。 この事は、裁判を起こす権利は被害者本人にのみ有る、と定める現行法や、先に仕掛けた方が悪い、という標語を参考にするとよく理解される。 劣人主主義においては、1人を複数人が打ち負かす事よりも複数人を1人が打ち負かす事の方が正当性を疑われ易い、あるいは直接に定義で不正だと定められる。 優人主主義においては、人数は凶器であり、凶器の使用にはそれなりの正当事由が必要だとされるから、1対1の勝負に第3者を巻き込む事は原則としては全て不正である。 劣人主主義では、どの1人に対して「社会はみんなのものだ」と言う時にも、「みんな」の中にその1人が入っていない。 これでは、どの1人も、自分がどうするかに自分の意思を反映させる事が出来ない。 社会がその人以外の人のものであれば、それは他人の家の中のごとくであり、そこでどうするかは家主の意向に従がわなければいけないからだ。 優人主主義では、「社会はみんなのものだ」と言う時には、どの1人もほんのわずかながら社会の所有権を持っている、と考える。 これは、普通選挙という制度と見比べれば、よく理解されるだろう。 (4f6.7) スーパーマンという映画の第何作かに、主人公であるスーパーマンが人間社会の中に産まれたら殺されてしまうに違いない、という意味の台詞が有る。 つまり、その様な法則性(犯罪傾向)は有ると考えられているという事だ。 これは、ちょっとやそっとの事じゃないですよ、殺すんだから、それも被害者が優れているという理由だけで殺すんだから。 1人に対して残り全ての数十億人の総意でやっても弁解の余地は無い。 そして、映画のスーパーマンは、あそこまで出血大奉仕をしなければ、そういう犯罪の動機を打ち消せない、という事なのだ。 旧約聖書のノアの箱舟の話について、ノア一族以外の全員が神罰の洪水で殺されねばならなかったのは一体何の罪でなのか、という疑問を私は持っている。 一部の例外的な犯罪者がではなくほとんど全ての人が殺されねばならないほどの重い罪を犯しているとは、こういう罪ではないか。 それは、ノアの箱舟の話がフィクションであっても言える事である。 (4f7) 犯罪とは主に社会がする事であり、それに比べれば個人がする犯罪なんて取るに足りない。 なぜなら個人に比べて社会の方が圧倒的に強いからです。 権力者も所詮は個人です。 権力者が個人なのに強い(かに見える)様子は、多人数の2つの勢力が約束の内容をサイコロの目で決めるという合意をした場合に例えられるだろう。 どんな目が出てもそれに従がう、という合意です。 サイコロが権力者個人です。 確かに、誰もが権力者個人の言う通りにしなければいけないのだけれど、それは個人の権力者が他の全ての人を力で押さえつけているという構図とは随分違います。 そんな力どこに有るんだっつーの。 権力者の力は、それを都合よしとする大勢の人の力に他なりません。 むしろ、個人の権力者は強大な2つの力に挟まれて風前の灯の様に存在している、その方が現実に近い。 いつの時代も、横暴をするのは常に強い者です。 もともとは正義を実現する為の社会だったわけですが、その為には強くなければ用をなさないけれど、それにしても強い、強過ぎる。 こんなに強ければ、いずれは必ず悪い事をする、やっぱりだ、という風に成っているわけです。 個人主義というのは、その反省に立って社会に課せられた制限だ、と私は解釈する。 民事不介入の原則なんかは公然とそう言ってるよね。 それがDV(ドメスティック・ヴァイオレンス)の背景に成っている。 同和、共産は細胞膜や細胞壁が溶解して死に至る難病に例えられる。 夫婦別姓なんかも気を付けた方が良い。 本当に悪い人は個人で社会と戦ったのでは最初から勝ち目が無いので個人では犯罪をしない。 やるなら集団でやるのだ。 その意味で、刑事ドラマでもヒーロー映画でも諸悪の根源が異常な個人である場合がほとんどなのは、カッコ悪い事なのだ。 昭和の時代には「世直し」という言葉が多く聞かれたが最近では全く聞かない。 奴隷道徳がいかに逆さまな事を言っているか、分かります。 現代社会における格差の問題は、ここに私が書いた様な考えへの配慮の行き過ぎや濫用だと見なされねばならず、そういう考えの否定を根拠として格差を問題だと言っているなら、それは犯罪の動機でしかない。 社会がする犯罪の内容は、自分たちが犯罪だと定める事の禁止や処罰であるから、それが本当は犯罪である事が詭弁によって見えなくされている。 この点が病的なのである。 また、動物として本来持っているレベルまで身体を鍛えない、鍛えさせない、これも行き過ぎた社会化の不健康な所です。 身体を鍛えるという事は、遺伝子に書かれている設計図の通りに身体を完成させると言うことです。 その事は「スポーツ」という語の語源が「芽吹く」である事からも分かります。 劣った人がそれをしないさせないのは、個人差を見るのが嫌だから、また刀狩りの意味も有るでしょう。 (4f7.5) 優れた行ないが発生しなく成る様に狙って、優れた人の自由が減る様に狙って、何かする。 優れた行ないが発生しなく成る様に狙って、優れた人の自由が減る様に狙って、義務を不当に追加する。 優れた行ないが発生しなく成る様に狙って、優れた人の自由が減る様に狙って、奴隷道徳に従がう事を義務だと定める。 優れた行ないが発生しなく成る様に狙って、優れた人の自由が減る様に狙って、優れた人が時間や体力といった自分の生命資源を浪費したり疲れたりする様に狙って、何かする。 優れた行ないが発生しなく成る様に狙って、優れた人の自由が減る様に狙って、優れた人が自分達から独立できない様に狙って、何かする。 優れた行ないが発生しなく成る様に狙って、優れた人の自由が減る様に狙って、優れた人が刑罰を課せられる様に狙って、優れた人が犯罪したり犯罪したと誤認される(キズ物に成る)様に狙って、優れた人を誘惑したり罠にはめたりする。 優れた行ないが発生しなく成る様に狙って、優れた人の自由が減る様に狙って、優れた人が刑罰を課せられる様に狙って、義務を誰も守れないぐらい厳しくしておく。 優れた行ないが発生しなく成る様に狙って、優れた行ないを成功させようとする営みが行なわれなく成る様に狙って、何かする。 優れた行ないが発生しなく成る様に狙って、優れた行ないを成功させようとする営みが行なわれなく成る様に狙って、優れた人をつんぼさじきに置く。 優れた行ないが発生しなく成る様に狙って、優れた行ないを成功させようとする営みが行なわれなく成る様に狙って、優れた人をミスリードする。 優れた行ないが発生しなく成る様に狙って、優れた行ないを成功させようとする営みが行なわれなく成る様に狙って、優れた人が自信を無くしたり自分を劣っていると誤認したりする様に狙って、何かする。 優れた行ないが発生しなく成る様に狙って、優れた行ないを成功させようとする営みが行なわれなく成る様に狙って、優れた人が思い上がって成長しなく成る様に狙って、あなたは今のままで十分だからこれ以上成長する必要は無いと言って優れた人を騙す。 優れた行ないが発生しなく成る様に狙って、優れた行ないを成功させようとする営みが行なわれなく成る様に狙って、優れた人が恥ずかしくて出来なくなったり、やる気をそがれるように狙って、優れた人や優れた行ないを馬鹿にする、笑う。 優れた行ないが発生しなく成る様に狙って、優れた人が失敗する様に狙って、何かする。 優れた行ないが発生しなく成る様に狙って、優れた人が失敗する様に狙って、優れた人をつんぼさじきに置く。 優れた行ないが発生しなく成る様に狙って、優れた人が失敗する様に狙って、優れた人をミスリードする。 優れた行ないが発生しなく成る様に狙って、優れた人が失敗する様に狙って、優れた人が無謀な賭けをする様に狙って、何かする。 優れた人が劣っているとか悪いと誤解される様に狙って、優れた人が信用されなく成る様に狙って、何かする。 優れた人が悪いと誤解される様に狙って、優れた人が犯罪したり犯罪したと誤認される(キズ物に成る)様に狙って、優れた人を誘惑したり罠にはめたりする。 優れた人が悪いと誤解される様に狙って、優れた人に劣った人を重荷として負わせ邪険に扱わせる。 優れた人が悪いと誤解される様に狙って、優れた人が面目への執着のせいで正直さを失ったと劣った人が誤解する様に狙って、誤解され易いが正しい意見を劣った人に言わせる。 そうすると優れた人はその正しい意見を誤って断定的に否定してしまい、それを見た劣った人が優れた人を面目への執着のせいで正直さを失ったと誤解する事が見込める。 優れた人が劣っているとか悪いと誤解される様に狙って、劣った人に出来ない事を出来る人は劣った人に有る人間性のいずれかが欠けているからそうなのだ、といったデマを吹聴する。 優れた人は劣った人とは別の生き物である、優れた人は人間じゃない、優れた人はロボットみたいな存在だ、といったタイプのデマがこれです。 優れた人が恩・感謝・謝罪の関係において下に見られる様に狙って、優れた人が謝罪したり礼を言ったり尊敬表現をしたり服従したり頼み事をしたりする様に狙って、何かする。(恩を着せる等) 劣った人が優れていると認識される様に狙って、優れた人が劣った人に接する態度で劣った自分が優れた人に接する。 そう出来る様に狙って、社会を改変する。 劣った人が優れていると認識されるように狙って、優れた人に負けてはいけないという義務を劣った人に課す。 劣った人が優れていると認識されるように狙って、劣った人にデートドクター式の教育をする。 優人主主義の支持者が減る様に狙って、優れた人が劣った人から嫌われる様に狙って、優れた人が悪いと思われる様に狙って、何かする。 優人主主義の支持者が減り劣人主主義の支持者が増える様に狙って、優れた人や劣った人が無謀な賭けをする様に狙って、何かする。 優人主主義の支持者が減り劣人主主義の支持者が増える様に狙って、劣人主主義者をエコヒイキする。 劣人主主義の支持者が増える様に狙って、劣人主主義の言い分に含まれる矛盾が露見しない様に狙って、互いに矛盾する発言を時間的にや空間的にや文中で非常に離す。 劣人主主義の支持者が増える様に狙って、劣人主主義の言い分に含まれる矛盾が露見しない様に狙って、循環論法の環を非常に長くする。 劣人主主義の支持者が増える様に狙って、劣人主主義の言い分に含まれる矛盾が露見しない(屁理屈が温存される)様に狙って、劣人主主義の言い分を臨時にのみ見せ、恒常的に公に晒したままにしない。 これは、劣人主主義の屁理屈は、懸賞を掛けられる数学の難問と違って稚拙なので、公に晒せばあっという間に論破されてしまい二度と使えなく成るからです。 臨時にしか見せないという特徴は、IQテスト(知能検査)にも見られます。 だから、IQテストも劣人主主義の道具である事が疑われます。 IQテストで事前に屁理屈の論破に要する時間を調査しておけば、個別の局面で会話の時間を制限してどういう屁理屈を通用させる事が出来るかを推測できる、などが考えられる。 劣人主主義の支持者が増える様に狙って、劣人主主義が社会正義でありそれを否定する事は社会という概念を否定そて野生の動物として生きる事だ、とウソをつく。 優人主主義者が抵抗する気を無くす様に、劣人主主義の言いなりに成る人が増える様に狙って、劣人主主義が勢力として主流であるとウソをつく。 劣人主主義の支持者が増える様に狙って、ウソが信じられ屁理屈が納得される様に狙って、曖昧な言葉を使う。 幾つかの基本の狙いが達成される様に狙って、劣人主主義の支持率が高まればそれら基本の狙いが達成される様に劣人主主義の内容を決める。 本項で私が用いた「~が・・・する様に狙って○×する」という文型は、私の相対正義論の研究成果です。 これは英文法で言うところの他動詞表現「~を・・・する」が法理を表現するには解像度不足である事が屁理屈の温床に成っている事、への究極的な対策です。 例えば、「Aを包丁で刺し殺す」は「Aが死ぬ様に狙って、Aを包丁で刺す」と表現されます。 「Aを包丁で刺す」は「包丁がAに刺さる様に狙って、自分の身体を動かす」と表現されます。 「自分の身体を動かす」は「自分の身体が動く様に狙って、選択する」と表現されます。 したがって、「Aを包丁で刺し殺す」は「Aが死ぬ様に狙って、包丁がAに刺さる様に狙って、自分の身体が動く様に狙って、選択する」と表現されます。 幸い、選択するという意味の英単語selectには自動詞用法も有ります。 「AがBする様に狙ってCする」という文型では、「Cする」の部分に「DがEする様に狙ってFする」という文型の文を書く事もでき、それを繰り返して何重に入れ子構造の文を作る事も出来ます。 詳しくは 相対正義論@持論@学問@宇田英才教室 に書かれています。 (4f8) 本当は、主人道徳も個人の強さで力を得たのではなく、個人の強さが支持された、集団の強さの主成分が構成員の優秀性だった、優れた個人を劣った人が集団で攻める事をしなかった、ということだろう。 善悪の基準として正しくないという事が暴かれれば、奴隷道徳は力を失います。 暴力によって力を得た主人道徳と違って、奴隷道徳は騙す事によって力を得ているからです。 しかし、得られた力はどちらも暴力です。 奴隷道徳だからと言って、従がわないとあなたの事を嫌いに成るわよ、という形で従がわせるわけではない。 従がわない人には暴力をふるう点では奴隷道徳も主人道徳も同じです。 主人道徳が正しいと公認されると、劣った人は優れた人に劣っているという評価をこじつける犯罪に入ります。 だから、なんぴとも自分の優秀性を証明する競争の権利があるのです。 劣人主主義者は鼻をすすりながら「ごめんね、ありがとう、ありがとう、ごめんね」と言って敗北者に取り入り、勝利者を「あんなやつほっといて行こ」と言って敗北者を連れ去り、そうやって連れ去った敗北者を集めて大挙して勝利者を侵攻しに戻って来る。 (4f9) 劣った人の人数が多いと言っても、その中でインチキを使って優れた人を打ち負かそうとする人はそんなに多くないと私は思う。 しかし、それでは人数の多さから来る力が得られない。 そこで、劣った人の中の悪人が劣った人の中の善人を自分たちのインチキに加担させる、という犯罪が派生的に出て来る。 騙して加担させたり、脅して加担させたりです。 善悪の基準を理由に相手を攻撃する者も、その為に善悪の基準を不正に曲げれば悪者であり、その攻撃は不当であるから、その攻撃は相手が悪者である証拠とは成らない。 また、劣った人の集団でも、自分達が主張する善悪の基準を社会に公認させる事が出来たなら、それは弱者ではない。 つまり、奴隷道徳をもつ人々は弱いけれども善良である、というのはウソである。 それは劣っているけれども悪くて強い、というのが本当です。 私が言いたいのは、優劣では負けるから善悪で勝負しようとした奴隷道徳が善悪においても悪である、という事です。 不正という言葉を私が使ったのはそのためです。 ニーチェの意見では、優劣で負けた奴隷道徳による主人道徳への善悪での復讐は成立している事に成っていますが、私の意見はその点が違うわけです。 自分達は弱くて善良ですなんて、とんでもない話なわけです。 つまらない、くだらない人間は、その代わりに善良ですという美点もない、つまらないくだらない上に性質も悪いんです、本当は。 劣った人なんて、最初から悪い事も出来たらしたんです。 出来ないからしなかっただけ。 こんなの善い人ですか。 ちがいます、悪い人です。 そして現代はこの凶悪事が猛威をふるって吹き荒れている時代です。 この様な不正が深刻に認識されて抑制される時代が来る事も有るが、年月が経つとまた不正が通用する世相がぶり返す。 それは、あたかも、年月が経って前回のバブル経済を知らない世代の時代に成ると、またバブル経済が再発するのに似ている。 しかし、そういうものと諦めるのは間違いだ。 原因を突き止めて再発を防がなくてはいけない。 原因としては、次の事が考えられる。 不正が抑制されている時代には、出来る様に成ったらまた犯罪するつもりの人が悪い人ではない様に見えてしまう。 本当は人殺しの第一歩として蟻の一穴を作る事を狙った凶悪な嫌がらせが、そうだと思われにくくなる。 犯人が犯意を保持したまま、そう成るのを虎視眈々と狙って辛抱強く何年でも待っている。 そういう犯人が本当に弱者で可哀相に見えて来る。 何がどうしてどうなるのか、誰が何をどうするのか、急所を押さえた解明がなされないままにされている。 また、中途半端な解明が「あるまあ」とか「なかろう」という風に信じられにくくなる。 犯人が不公平のポイントを貯める。 犯罪が抑制されると、それによって妨害されていた優れた人の活動が開放され、劣った人との格差が大きく成る。 これらが原因で再発する。 格差が大きい状態を劣人主主義者は「まるで別の生き物の様に成る」とか「昆虫の社会みたいに成る」と言って、それではいけないよねという意見に賛成させる。 別の生き物とは、優れた人が劣った人を見て思う事ではなく、劣った人が優れた人を見て思う事であり、これが人権を否定する犯罪の根本原因のひとつである。 人間じゃないとのそしりは、本当は、その様な犯罪をした事によって受ける物である。 不公平のポイントを貯める、貸しを作る、という犯罪の説明をします。 例えば、嫌がらせについて、明らかに限度を超えているとまでは言えない段階で「やめろ」と言われればやめる。 これは、犯人が義務の無い事をさせられた(してやった)、とカウントされます。 限度を超える前に「やめろ」と言われればやめるくせに、被害者がそれではちょっと言い過ぎたかなと思って次回は限度を超えるのを待って、嫌がらせが限度を超えて幾ら何でもこれは限度を超えていると判断した瞬間に成って「やめろ」と言っても、犯人は嫌がらせをやめず「嫌がらせではない」と言って白を切り通し、それ以上認めさせようとすると被害者を精神病だ被害妄想だと言って逆に攻撃し始める。 被害者がこれに恐れをなして早め早めに「やめろ」と言う事を繰り返すと、犯人にどんどんポイントが貯まって行きます。 そのポイントをものすごい人数で何十年にも渡って貯めれば、我々はこんなにたくさん馬鹿にされた、これだけ貯まれば、これからはその貸しを返してもらうぞ、なあそうだよな、みんな、という風に犯人が考える。 これはちょっと分かり難かったかもしれないので、別の例を上げます。 例えば男女差別の問題で、男女平等が適正な状態です。 つまり、男尊女卑が間違ってるだけでなく、女尊男卑も男女差別であり間違っているわけです。 それなのに劣人主主義者は、男尊女卑か女尊男卑かのどちらかを必ず選ばせようとします。 男女平等という適正な状態は絶対に取らせない様にコントロールして来るわけです。 すると、男尊女卑の不公平によって女にポイントが貯まり、それによって男尊女卑が否定され、次は女尊男卑に、すると今度は男にポイントが貯まってまた男尊女卑に移行する、この繰り返しが延々と続く様に計らう、という事です。 通貨の制度を間違ったままにしておくのも、任意に加減できるハンディキャップで劣った人を優れた人に勝たせるインチキであるだけでなく、逆に優れた人をその持ち味を超える程度にまで不正に富ませて劣った人がそのポイントを貯める為である場合も有るでしょう。 (4f10) そうして加担させられた善人は、優れた人に対しての人間の盾としての意味も持ち、人質を取っての要求には従がってはいけないという考え方に優れた人が従った結果それら人間の盾に出た被害が、戦争や労働における弱者の悲惨で、それはまた優れた人に汚名を着せる手段として無くなってもらっては困ると主犯によって考えられている。 弱者の悲惨が劣った人による自傷行為だとは、こういう意味です。 優れた人に汚名を着せる事によって奴隷道徳はさらに強く成る。 過去の歴史において白人が黒人を奴隷にして迫害した事を例に取って説明すると、白人の中の劣った白人が優れた白人に伍する手段として黒人を奴隷にするという罪を犯した、という視点です。 実際にそうだったかは知りませんが、私が言いたいのは、優れた人と劣った人の対立において劣った人が犯す罪にはそういう種類の罪が有るという事です。 例えば、学校の先生に優れた先生と劣った先生が居る場合、劣った先生が自分も優れた先生と同じぐらい優れていると思いたい思われたいと考えて、その願望を叶える手段として生徒に過度の勉強を強要するという罪を犯す事は現実に多く有るのではないでしょうか。 優れた雇用者に勝つために劣った雇用者が被雇用者を酷使するのも同様です。 負けたくないから自分が頑張るのは無制限に自由である。 しかし、自分が負けないようにするために他者を強いて頑張らせるのはルール違反である。 不当に自由競争のせいにされている弱肉強食は、本当はこのルール違反のせいである。 また、負けたくないから自分が頑張るのは自由だが、競争相手の業務を妨害するのもルール違反である。 1990年代に私の悠然としている様子を見て私の父が「こりゃあ戦争でも無いといけんのう」と言った。 劣人主主義の本音を語るに落ちる人を見たのは、後にも先にもこれ1回だけだ。 これが本音なら、道理で口が裂けても言わない様にするわけだ。 本当は、この動機が戦争を起こすのだ。 資源がどうの、というのは理由の偽装だ。 エホバの証人という組織の創設者か何かが、最後の審判は1914年だ、と予言したのは1914年より前です。 この事は、1914年に第1次世界大戦が始まった事は、そう成る様に狙って何者かが何かをしたからである証拠だと私は考えます。 陰謀論を批判する意見に、世界の趨勢が誰かの狙い通りに成るなんて事は有るはずが無い、世界の複雑さは非常に大きいからだ、というのが有ります。 しかし私は子供の頃に両親以外の大人から、何でも出来る様に成った、何をどうしますか、と相談されてるんですよ。 私が「へ?ホントに何でもなのか?」と聞き返すと、何でも出来ると言っても宇宙のサイズを変更するとかそういうのは無理です、という意味の事を言われた。 それは子供相手の質問文の工夫かもしれないが、他の不審事とも考え合わせると、そうとも限らない。 (4g) 劣った人と優れた人の対立についての私による一般論の状況証拠を列挙します。 (4g1) 分断の存在。 (4g2) メジャー・コンテンツのコンテンツ・コード。 (4g3) 言語の性能を低下させようとする工作の存在。 (4g4) 言語の悪用例。 (4g5) 見聞きした話。 (4g6) 自由主義か社会主義かのジレンマ。 (4g1) 2021年のアメリカの大統領選挙をめぐって話題に上り、日本国内にも有ると言われている分断という物の正体は、奴隷道徳と主人道徳の対立なのだろうと思う。 (4g2) 北朝鮮の悪いイメージが普及しているので、それを利用させてもらうと、北朝鮮が自国内の様子を西側諸国に紹介するドラマや映画を作るとしたらどういう基準で作るだろうか、そういう基準で西側諸国の我々もドラマや映画を作って自分達で見ている、そういう事が私は言いたいんです。 つまり、美化が為されていて本当の姿が描かれていない、という事です。 フィクションだからそれで良いと言われれば、その通りです。 しかし、それでは、美化しなくてはいけない、本当の姿を描いてはいけない、という強要が通用しているとしたらどうでしょうか。 それではいけないのは明らかです。 少なくとも表現の自由に反する。 その点で手加減しない事が許されているのが文学というジャンルであり、文学にノーベル賞が有るのはその為だろう。 ところが最近は、実名を挙げなくても登場人物が実在の誰なのか作品の内容から分かってしまう作品はいけない、という意見が聞こえて来る様に成った。 言葉狩りだけでなくこれも人間の本当の姿を描く作品を抑制する目的で劣人主主義者が仕掛けている禁止の強化だと考えられる。 これでは、美化しない人間の本当の姿を描く作品を作れません。 なぜなら、人間の本当の姿という物は、自分で直接経験する事によってしか分からないものだからです。 マスコミを通して知った事や知人からの伝聞では、私的経験では知り得ない事を知る事が出来る一方で、私的経験なら知り得る情報のいくつかが欠けてしまいます。 経験者の実感とか登場人物の様子や態度といった言葉で説明するのが難しい事もそうだし、言葉で説明できる事でも、経験者なら関連付けて認識しているが伝言者は知らなかったり無関係だとして省略してしまう事もそうです。 私の言説に対して、そういうわけではないんですよと言い訳する機能を持ったドラマなどをテレビで見る事も多い。 間違った先生の話を紹介しましたが、テレビドラマは、それが本当だとどうしても認めざるを得なく成ったら、劣っていて性質が悪いと平均的な人が感じる様な役としてその先生を描く傾向が有ります。 テレビドラマのそういうところが私は嫌いです。 ある人が間違っているという事をどうしても認めざるを得なく成ったら、その人は例外なんだ、という形に持っていこうとする、これはインチキです。 このインチキは、若いときから老いるまで一貫して駄目な人の駄目さを老害という言葉で誤魔化すインチキと同種です。 テレビドラマは、平均的な大多数の人をこきおろす様には絶対に作りません。 水戸黄門というテレビドラマでも悪いのは悪代官一味だけ、村人が一様に悪に染まっているという表現は見られない。 本当は能力が劣っていて性質も悪いのにその事を言えないのは、現代社会では平均的な大多数の人が裸の王様であるという事です。 これが、奴隷道徳が善悪の基準として社会に公認されて力を持っている、という先述した状態です。 テレビで優れた人が紹介されるとき、必ず言い訳の様に、その代わり劣った人よりこの点が不幸です、という内容が盛り込まれている。 本当は、言い訳なんて必要ないはず。 優れた人は劣った人より何から何まで良い事づくめ、その支払いとしては働きが大きい事だけで十分。 昭和の時代には決まって、お返しは仕事でして行きたいと思っています、と言っていたよ。 梅宮辰夫という俳優が、死ぬ少し前に、最近はテレビ番組の内容が庶民的に成ってつまらなくなった、と言うのをテレビで見た。 これは劣人主主義が勢力を盛り返した証拠だ。 映画007シリーズに「ムーンレイカー」という作品が有ります。 その作品の中で、悪役のボスによって生き残るに値すると評価されてノアの箱舟に見立てた人工衛星に収容されていた人々(生物として優れた人々)が、007の活躍によって全員死滅しますが、そこに何らの悲哀も表現されていない。 一方では、生物として劣った男女カップルが悪役のボスに使い捨てにされそうに成る事は、涙を誘う様に表現されている。 死滅した優れた人々に悪意が有ったからそうなのかもしれないが、その点は説明されていない。 悪への加担者ではなく、招待客の様な扱いにも見えたのだが。 これも、劣人主主義のコンテンツコードに従がっているからだろう。 つまり、悪者の不幸だから何も感じないのではなく、優れた人の不幸だから何も感じない、という構図に成ってしまっているのだ。 007ほどのポリティカルコレクトの模範みたいな作品でもそうである事は、劣人主主義の根深さを良く物語っている。 (4g3) 奴隷道徳が劣った人を強くした事にも現れている様に、劣った人が優れた人に対して行なう犯罪の主な手段は屁理屈(詭弁)だと私は考える。 ペンは剣よりも強し、という法則の悪用あるいは、この法則への屈服である。 暴力で戦って勝っても後で言葉でそれは悪事だったという事にされてしまうと、挽回されてしまう。 2021年現在まで子供が学校でのイジメによって自殺に追い込まれる等の深刻な害を被る事が社会問題に成っており、その解決方法を誰も見付け出せないで居るが、解決方法は簡単である。 その様なイジメの罪は非常に重い(殺人と罪の重さが同じだ)という当たり前の事を公的に認定するだけで解決するよ。 具体的な事は全てそれに従がうはずだ。 法律の整備が遅れていれば「なぜ遅れてるんだ」という批判が巻き起こり法律が出来るだろうし。 この様に、現代社会では実際には勝負は全て言葉でついてしまう。 この事は、犯罪を言葉で解決できる、と読まれるべきではなく、現代の最も病的な犯罪は詭弁によって成り立っている、と読まれるべきです。 イジメが解決できないのは、これはイジメであって暴行でも殺人でもありません、という詭弁が飛車や角の様に効いているからです。 これは、犯罪という社会の病気の病状が暴力を鍵とするステージから詭弁を鍵とするステージに進んでしまった、重篤化した、陰湿化した、という事です。 これは、昭和の時代と平成の時代の違い、といった事よりももっと大きなスケールでの事です。 詭弁を鍵とするステージは昭和の時代が始まるよりずっと前に始まっており、本来は昭和の時代はその中にどっぷり浸かった時代に成るはずでしたが、何らかの理由で昭和の時代は病状が一時的に小康状態であった、それが平成の時代にはまたぶり返した、と私は見ています。 何故ぶり返したか、それは、根絶しなかったからです。 ぶり返す瞬間を象徴する出来事として、トップ・アスリートが大会で観客に手拍子をやめる様に頼んだ、という出来事が有りました。 1990年代か2千1桁年代の事だったと思います。 どうです、みなさん、今はどの試合でも観客の手拍子が有りますよね。 これは、その時に押し切られる形で始まった事なのです。 宮沢元首相が首相だった1990年代に、今日本中に同和の嵐が吹き荒れている、と首相が言うのを聞いたか、またはそう伝聞した。 これは劣人主病再発前夜だろう。 嘉門タツオという替え歌歌手がテレビのトーク番組で「小市民」という言葉を蔑視語として使った時に、隣に居たアナウンサーか何かがそれに同調せず「何を言ってるか意味が分からない」という風にしらばくれるのを何年か前に見たが、これも、その時までに劣人主主義が勢力を盛り返した証拠だ。 嘉門タツオがデビューした頃は、一気飲みを煽る様な調子でみんなで威勢の良い事を言う風潮があった。 程ほどに金持ちである小市民に甘んじてる様では野心が足りん、という煽り方が理解された時代です。 それをテレビのアナウンサーが「はて、何の事でしょう?」という風にとぼけたのだ。 ルー大柴というタレントが、手のジェスチュアをやめる様に言われて困っている、とテレビ番組で発言するのを見た事も有る。 視聴者が気に留めてくれない危険が大きいが、私の目には明白な異常事態だと分かった。 1990年代の事だった。 この時期にテレビ業界や芸能界に今まで続いている異変が起こったのだと思う。 タレントにとって自分の芸のどこかを少し変えただけで人気が低下する危険というものは死活にかかわる問題だ。 それを雇用者がどうしろこうしろと言うなんて話は、それまで一度も聞いた事が無かった。 私が子供の頃には、テレビの芸能番組か何かに脅迫電話だったか脅迫状だったかが殺到すると出演者が言うのも聞きました。 1970年代にテレビで「コメットさん」という番組が始まりました。 それを小学生の私が見ていると母から「こんなのはいけません」と言われました。 「いけません」の理由は「周りのみんなが毎日地味な生活に耐えているからだ」と私の母は言いました。 多分1990年代に、コメットさんの主演女優である大場久美子さんの住所が火事に成って、コメットさんの衣装はその時に全部燃えてしまったそうです。 1990年代後半、テレビでコメットさんの抜粋が紹介されているので見てみると、主演女優が大場久美子ではなかった。 それまで一度も見た事が無い地味な人でした。 たぶん、大場久美子版のコメットさんより古い別バージョンのコメットさんだったのでしょう。 何かが変わった様でした。 社会党か社民党かの党首か何かの土井たか子さんについて「過去におたかさんブームが来た」という声をテレビで何度も聞いたのですが、私の記憶ではそんなブームが来た事は過去に一度も有りません。 これも不審です。 また、私が小学生の頃、次の様な事が有りました。 何でも公明正大に行なうべきだと私が言うと、ひとりの主婦らしい大人の女が「もう、それでええわあ、そっちの方がサッパリしていてええわあ」と言った。 既婚の大人が数人居る場での事だった。 また似た様な状況で私が、今までの事は水に流せ、と言うと、これまでの経緯が有るのでそれは出来ない、という意見や、事情を知らない子供に尋ねるのは不正だ、という意見が出た事も有った。 これらは小康状態が始まる瞬間に当たる時期だと思う。 小康状態が始まる前に奴隷道徳に従がう犯罪が続いており、その間はそれを裁く事はおろかやめさせる事も叶わなかったが、小康状態が始まってそれを裁ける状態に成った、という事だと思う。 テレビから時々聞こえる「手のひら返し」という現象も、これの事だろうと私は推測している。 手のひら返しというのは、有名人が無名時代にはその人に色々と加害していた人々が、有名人が有名に成ると同時に一斉に手のひらを返した様に厚遇する、という話です。 水に流してもらったのにぶり返したとしたら、その罪はもう許される事は無い。 それ以前に私は、正(プラス)の行ないで競ったのでは強い者が勝つから徒歩での交通の嫌がらせで競う事にしようと言われて承認した事がある。 嫌がらせ合戦で勝った人ではなく、本当にその仕事に有能な人にそれぞれの仕事をしてもらう方が良いでしょう、と「言われて「本当にそうですね」と答えた時には、その事は忘れていた。 私が友達関係を対等だと言うと、大人の男が「そんな面白い話は初めて聞いたわあ」と言った事もあった。 小康状態が始まる瞬間に当たる時期には、他にも色々と妙な話を聞いた。 詭弁を鍵とするステージが始まったのはニーチェの時代の少し前ではないか。 共産主義革命が流行した頃までには既に始まっていただろう。 小康状態の原因は、経済の高度成長とか経済優先の世相ではないか。 この経済優先という言葉も変だと思いませんか。 経済を何より優先させるのか、誰も言わない。 言うわけには行かないのでしょう。 経済優先、わたしは隠語だと思ってます。 陰謀論の人は突き止めると良い。 詭弁を破らない限り詭弁を鍵とする犯罪を無くす事は出来ませんが、詭弁を破るだけでそういう犯罪は出来なく成ってしまいます。 詭弁の支援を前提とする暴力は、詭弁を取り去れば、まるで裸踊りの様に成ってしまいます。 あんた何やってんのんって感じです。 だから事情を知らない子供の頃は、それを見て無邪気に笑った事が何度も有ります。 笑われたのでは犯行が効力を発揮しない。 被害者が怒らなければ犯行の効力が生じない。 その上笑われてカッコ悪い。 それで犯人が悔しがる様子を見て、ははあ何か有るのだなと子供の頃の私も思いました。 それでも、笑うという行為に言い掛かりを付けるのは無理だ。 そういう状態が長く続いていました。 それが、ある日突然変わったのです。 私が同じ様な事を笑うと、八つ墓村という映画の「お前が来ると血の雨が降る、来るな」という台詞の語調で私に向かって「馬鹿にしてはいけない」と言う者が現れ、それ以降はそれがパターンに成った。 この様に、犯人側は基準をいくらでも吊り上げて来るのである。 大人に成ってからも、戦闘員の様な態度で民業業務車両で私を偵察、牽制して来る事務系無所属みたいな軟オッサンを滑稽の極みだと感じた。 何だコイツ、何をどう勘違いしたらこんな風に成るんだ、いっちゃってるとはこの事だ。 これが裸踊りの見え方です。 大人のやる事じゃないよ。 奴隷道徳が主人道徳に「それでも大人か」と言って難癖を付けるのと矛盾するんだよな。 そこで、優れた人も、これへの対抗措置としては、言葉で戦って行くしかない。 しかし、戦いを言論で行なう事は、戦いを暴力で行なうよりも、劣った人を優れた人に相対的にますます不利にする。 なぜなら、暴力におけるよりも言論においては人数が強さに結び付き難いからだ。 30℃の湯は何リットル集めても30℃に過ぎないが、50℃の湯は1ccでも50℃です。 ウソも百回言えば本当に成る、という諺も有るが、一方では、数学の証明なんかは1人で成し遂げても他の全ての人が認めざるを得ない。 劣った人は前者に依拠して1人で百回言う代わりに百人で異口同音に同じウソを言う方式を取る事に成る。 この方法がその愚劣さとは裏腹に意外に非常に強力である事を、現状を奴隷道徳が支配している事は物語っている。 この問題は、優れた人といえども、今まで誰も抗えず諦めて屈服し続けて来た、逆らった者はみんな抹殺されてしまった、そういう問題です。 そんなのひとりでひっくり返してやらあ、というのが、このページ等での私の発言です。 劣った人々は言葉で戦っても分が悪い。 そこで暴力を併用する事に成るが、先述した様に暴力を単体で用いたのでは、言葉でやっつけられてしまう。 だから、劣った人は暴力と言葉をセットで用いる。 その内訳は、自分たちが行なう暴力を指し示す言葉の縮小や抹殺、および、自分たちが行なう暴力(の害)を防ぐ行為を実際よりも悪く言う言葉の追加や促進です。 こうして、劣った人は、自分たちの悪が言葉でとがめられないように、自分たちの悪(の害)を防ぐ行為が言葉でとがめられるようにします。 言葉狩りと呼ばれる運動は前者の具体例だと思われます。 言葉狩りという言葉自体が抹殺の対象と成っている。 大新聞やテレビニュースが言葉狩りという言葉を使うのを聞いた覚えは全く有りません。 しかし、それ以外のルートで何度も聞いているし、言葉狩りだと思われる実例が着々と進行しているのは明白です。 「つんぼさじき」という言葉が使用禁止に成った、という話が聞こえ始めています。 耳の聞こえない人を指し示す「つんぼ」という言葉が入ってるからいけないのだとか。 しかし、(4e)で紹介した私の友人や他の色々な友人の様子から私は自分だけがつんぼさじきに置かれているのは間違いない、と判断していますが、つんぼさじきという言葉が使えないのでは、この状況を即座に的確に言い表す事が出来ません。 「なかまはずれ」という言葉が使えないのではイジメの問題を十分に記述できないのと同じです。 だから、言葉狩り賛成の立場の人には、つんぼさじきを禁止するならつんぼさじきの代わりに使える言葉を提案して承認を受ける等の対策を義務付けるべきだ。 私なんか、代わりの言葉がまだ見付からないぞ。 的確さも減ってはいけないし、文字数も増えてはいけないし、既に知られている言葉でないといけない。 「片手落ち」がいけない、という話も聞いた事が有りますが、これも、つんぼさじきについてと同様です。 犯罪や防犯やそれらの前提を的確に記述するのに使われる言葉を使用禁止にされると、そういう記述が出来なくなったり、言葉選びという問題が解くべき問題として追加され、障害物競走の様に成ってしまう。 その事が犯罪を利するのは、いけないとされる言葉をどうしても必要な局面で使う事よりもはるかにいけない。 「馬子にも衣装」と「人足」だったか「人夫」だったかも言葉狩りの対象に成っている、という話が私の耳に入っている。 「つんぼさじき」や「片手落ち」と違って、「馬子にも衣装」や「人足」は、犯罪や防犯を記述するのに必要と成る程度が小さいだろう。 しかし、「馬子にも衣装」や「人足」といった言葉は、犯罪の動機を記述する時に無いと不自由する場合が出て来るだろう。 例えば、次の文章を考えてみて欲しい。 劣った人は幾ら経済的に恵まれても幾ら社会的に高い地位に就いても、それは馬子にも衣装であるに過ぎないので、経済的に恵まれない優れた人や社会的に高い地位に就いていない優れた人に対して優越感を感じる事が出来ないとか、不正なしでは3日天下に終わる、その欲求不満や延命欲求が、自分の財力や権限を不正に使用する動機と成りがちである。 馬子にも衣装という言葉を使わずにこれと同じ事を書こうとすると冗長に成りそうだ。 また、私の私的経験から来る実感としては、劣った人から不正に害を被った優れた人は、その不正の証拠を出す事が出来ない時に、不正を責めるのを諦めて、その腹いせに加害者の劣っている所を言い立てて溜飲を下げる傾向が有る。 これに対して劣った人が言われっ放しに成らない様に、悪い所を責められるのは仕方ないが劣った所を言い立てられるのは不当な損害だという形で反撃した、あるいは、最初から加圧して蔑視発言を引き出しそれを責めるのが目的、蔑視発言を引き出してそれを責める為に加圧した、蔑視発言の取締りには、この要素が大きい。 したがって、これも、悪いのは劣った人である。 人権侵害とは、人間扱いされない事であり、他のどんな権利が侵害されようとも少なくとも人権だけは保障されなければいけない、そういう類のものであるはず。 だから、人権を理由に蔑視発言を取り締まる事は、出来ないだけでなく、蔑視発言をした人をその事を理由に人間扱いしないなら、そちらの方が人権侵害なのである。 些細な事を理由に重い事をする、重い事をする目的で些細な事を問題にする、この屁理屈体質が、人権だ差別だと言う人々の中には濃厚に含まれている。 実害なら人権侵害に成り得る。事実の否定ではない蔑視では人権侵害に成らない。 ところが最近では、人権だ差別だと言う人々が開き直って蔑視までを人権侵害に加えているのが蔑視発言の取り締まりだ。 そもそも、優れた人と劣った人の対立において、自分達が幾ら不正に利益を得ても、優れた人に幾ら不当な損害を与えても、優れた人に人権というものが最後の砦として残っている限りは、結局は自分達の方がカッコ悪くなってしまうという事を、劣った人が試行錯誤の結果悟った、その結果何としても優れた人から人権を奪わなければいけないと考える様に成った、その手段として、否定したい物を言葉で肯定するという原則に則って、人権人権と言い出した、これが真相だと私は思っている。 言語の性能を低下させようとする工作としては、言葉狩りの他に言語表現の婉曲化も挙げられます。 言語表現の婉曲化は、辛辣な表現の実質上の禁止であり、差別だ人権だという理由がこじ付けれないので正面切って禁止できない言葉を使えなくする動きだと言えます。 あおると言うのは、加害車両が被害車両の後ろから車間距離を危険なまでの詰めて被害車両が自分の動力で加速して法定上限速度を超える様に狙うとか、加害車両が被害車両を追い越す事によって挑発し、被害車両が違法な運転で追い越し返す様に狙うとか、そういうのがあおるです。 挑発に乗らず回避に徹している被害車両を一方的に追い回し事故を起こしたり危険な目に遭わせたりするのは、あおるのとは違います。 それなのに、それを何故あおり運転と言うのでしょうか。 犯人をかばうのが目的としか言い様が無い。 強姦をイタズラと言うのも同様。 それでは、オウム真理教が殺人を「ポア」と言い換えたのと同じである。 ポアの直訳は救済だとか。 アクション映画の悪役は「かわいがってやれ」という言葉で「リンチしろ」という意味を伝えます。 この様に、言葉を制限する事は、その分だけ暴力を制限しない事に成る面が有る。 これも、否定したい事を言葉で肯定する、という手口の具体例と考える事が出来ます。 人に過度の負担をかけてはいけない、これを犯人は否定したい。 そこで、これを言葉で肯定する。 そしてその上で、人に過度の負担を掛けてはいけないから言葉を制限する、禁止された言葉を使った者には暴力を振るう、この様に犯人は持って行くのである。 もう何十年も前に始まった事ですが、人間関係について「トラブル」という言葉が使われる様に成りました。 これも、昔は無かった言い方で、初めて聞いた時からずっと私は不正な言い方だと思っています。 どこがどういけないかを言葉で説明するのは難しいけれど、試しに説明してみます。 トラブルというのは、当事者が誰も悪い事をして(言って)いないのに、当事者間の関係がこじれてしまった事を指し示すのにピッタリの言葉です。 これは、丁度機械の故障の様な物で、そこに悪意は介在しません。 機械の故障が部品の故障や設計の不備によって生じるのと同様に、人間関係のトラブルは当事者の過失や人間関係ルールの不備によって生じます。 当事者の誰かの悪意に基づく言動のせいで人間関係がこじれる事は、これとは違います。 機械の部品は悪意を持ち得ないので、機械の故障は全てトラブルです。 しかし、人間関係は違います。 人間関係では当事者が悪意を持ち得るからです。 それなのに、当事者の悪意に基づく言動のせいで人間関係がこじれた事までトラブルという言葉で表現される様に成っている。 これは、擬人化の反対の擬自然化だと言える。 本当は誰かが悪い事を言ったりしたりしたのに、誰も悪くない上手くかみ合わなく成っただけだ、という風に誤魔化しているのである。 この表現習慣も犯罪をかばっている。 かばっていると言うと善い事の様に聞こえるが、犯罪をかばうという事は、被害者の権利を不当に侵害する事である。 そして、このインチキも、どこかからビビッと指令が来たかの様に一斉に徹底的に始まったのである。 犯罪をかばうだけにとどまらず、被害加害の関係を不当に逆転させる目的でも「トラブル」という言葉は使われている。 被害者がトラブルを起こした、という言い方がそれだ。 この辺りがトラブルという言葉を使わせる本当の目的だろう。 間違えた。 トラブルという言葉は、犯罪を実際よりも小さく言う為に使われる場合もあるだろうけれど、それよりも主に、罪ではない言動を罪だと不当に認定する為に使われる。 禁止の基準の勝手な吊り上げの一例だ。 その用例としては、話し合いにおいて敵が勝ち味方が負ける事をトラブルという言葉で表現して敵の完勝にキズを付けたり、討論における発言態度に過度の注文をつけて討論を障害物競走の様にして勝敗が意見の正誤と食い違う確率を上げる事が考えられる。 また、討論で負けた腹いせに暴力をふるった事も、その原因をトラブルだと言えば、まるで相手にも悪い所があったみたいに聞こえる。 それを狙って、トラブルという言葉が使われている。 討論で相手を打ち負かす事は、何の落ち度でもないばかりか、多くの場合、相手に落ち度が有った事をよく相手に認めさせ得た事であり、それに対して謝罪すべきは負けた人である。 その謝罪をしないどころか逆に討論で勝つ事の方が罪だと言い出した、そういうとんでもない意味がトラブルという言葉には込められている。 つまり、喧嘩という言葉や揉め事という言葉の意味が担わされている。 ニュートラルな状態よりも良好な人間関係を築く事を目指すビジネスが順調に行かなく成った事をトラブルが発生したと言うのは妥当だと思う。 しかし、その用語法をニュートラルな状態にまで拡大使用するのは、間違っている。 客が商品への不満を述べ始めた、これはビジネスとしてはトラブルだが、ビジネスとしてという限定を外せば人間関係としてはトラブルでも何でも無い、全く正常な人間関係の範囲内に収まっている事なのである、のどかなもんじゃないですか。 ヘイ、ジーザス、みんなが愛し合ってないとトラブルですか~♪ 嫌いだという気持ちを表現するとトラブルですか~♪ そう定める事は、嫌う嫌われるの関係の責任を全て嫌う人に押し付ける不公平なんですよ。 嫌われる人に責任があっても嫌うのが悪いんだ、それが大人なんだと。 それは違うでしょう。 嫌いだという事を表現される事ぐらい我慢しなければいけない、それが大人でしょう。 それから、トラブルの最初からの当事者を「トラブルに巻き込まれた」と言うのも不正な言い方ですね。 この様に見て来ると、言語を分断してバベルの塔の建設を妨害したとされるキリスト教の神は劣人主主義の神であり、キリスト教というものは劣人主主義の宗教だ、と言えるのではないか、という疑いが生じる。 (4g4) 現代社会の最も病的な犯罪は詭弁を鍵としているが、そういう詭弁としては、言語の性能を低下させる事を目的とした詭弁だけでなく、積極的に錯誤を作り出す事を目的とした詭弁も使われる。 その中で最も根本的なフレーズは「強い者が勝つ」というフーレズだと思う。 奴隷道徳と主人道徳の対立についてのニーチェの言説で使われている強者、弱者という言葉のうちの強者が、ハッキリ敵を指し示す言葉として用いられている。 この事は、この犯罪(の詭弁)の根が奴隷道徳である明白な証拠である。 このフレーズは、犯人から社会のルールについて質問された人が答えると、犯人が「それじゃあ強い者が勝つ社会に成ってしまうんだよ」と反論する、という形で使われる。 ひょっとすると、あなたも聞いた事が有るのではないか。 質問された人は、弱肉強食を是とする様な返答をしたのではない。 返答内容は妨害の禁止といった様な事だ。 だから、犯人は「強い者が勝つ」と言ってるだけであって「強い者が食べる」とは言ってない。 「強い者が勝つ」というのは「正しい事が正しいと認められる」の隠語だと思っている。 ニーチェが強者という言葉で表現したい事は本当は「優れた人」という言葉で表現されるべきだ、と私は考えています。 その認識に立って言うと、「正しい事が正しいと認められる」とは「優れた人が優れていると認められる」という事であり、優れた人が優れた人だと認められると、優れた人の仕事も優れていると認められる事に成り、実利もそれに従がう。 これをいけないと言ってるのが、強い者が勝つのではいけない、という意見の正体なのである。 しかし、正しい事が正しいと認められるのではいけない、と言ったのでは賛成してもらえない。 そこで「強い者が勝つのではいけない」という表現を使って賛成を得て、それを持って、正しい事が正しいと認められるのではいけないという自分達の意見が承認されたと詭弁するのである。 劣った人は自分達の望んでいる事を他人に賛成してもらおうとしても、ことごとく反対された。 そこで、物は言いようである事を悪用して、自分達の邪(よこしま)な願いを別の言い方で表現し、相手を煙に巻いて錯誤させなんとなく賛成させる。 それを根拠に妨害してもよいというお墨付きを得たと詭弁するのである。 動機種の根本的な表現は「強い者が勝つ」だが、手口種の基本的な表現は「いけない」だろう。 「いけない」という表現は曖昧だ。 筆記における鉛筆の持ち方を「これ、いけないですか」「あれ、いけないですよね」と質問されて、「いけません」と答えた場合、その持ち方で鉛筆を持つ事は犯罪である、という意味には成りません。 しかし、道路を走っている自動車を「あれ、いけないですよね」と質問されて、「いけません」と答えれば、自動車をその様に運転する事は犯罪である、という意味に成ります。 「いけない」は多義的だけど、これらの例では、「いけない」の意味がどちらなのか分からないという事は有りません。 しかしそれでは、馬鹿にしてはいけない、なめてはいけない、というのはどうでしょうか。 例えば、仕事をなめてはいけない、人生をなめてはいけない、と言われた際に、なめると失敗する、という意味なのか、なめる事は他の人への罪だ、と言ってるのか、どちらなのか分かりません。 また、「なめる」とか「馬鹿にする」という言葉の意味も曖昧です。 また、内面の態度がなめている事も1種類ではない。 事物の価値や行為の難度を低いと認識する事を「なめる」という言葉で表現しても間違いではない。 人の能力を劣っていると認識する事を「なめる」という言葉で表現するのも間違いではない。 「・・・しても~の恐れは無い」という風に安心する事を「なめる」という言葉で表現するのも間違いではない。 価値観は主観だから、それをいけないかどうかという基準で計る事は出来ない。 人の命に価値は無いという価値観の人でも、人殺し(だけではないんだけども)さえしなければ、それでよいのである。 いわんや、なめる、をやである。 価値観は主観であり、好き嫌いと同じだから、誰かが事物の価値を実際よりも低いと認識しているかどうかは定義されない。 価値観が間違っている、という事は起こり得ない。 行為の難度は客観的に存在する事だから、行為の難度を実際より低いと誤認する事は有り得る。 それを「なめる」という言葉で表す事が出来るのは当然です。 しかし、行為の難度を低いと認識し、その認識が間違っていない場合でも、そういう認識を「なめる」という言葉で表すのも間違いではない。 価値観については、自分という人を他の人より素晴らしいと感じる事を「なめる」という言葉で表すのも間違いではない。 自分という人を他の人よりも能力が優れていると認識する事を「なめる」という言葉で表すのも間違いではない。 行為の難度を低いと認識する事については、自分なら余裕で出来るとか、普通の人でも出来るとか、幼稚園児でも出来るとか、これらの認識は、誤認であってもなくても「なめる」という言葉で表現されることが間違いではない。 自分でも無理をすればなんとか出来るとか、出来る人が全く居ないという程ではないとか、これらの認識は、誤認である場合には、「なめる」という言葉で表現されても間違いではない。 このうちの誤認については、誤認ですという意味を「いけない」という言葉で表しても間違いではない。 しかし、誤認してはいけないわけではない、というのも正しい。 また、それ以外の「なめる」については、それらはどれもなめる事ではあるけれど間違ってない事実認識なので、これらを「いけない」という言葉で評価するのは不適当です。 また、「誤認です」と「いけない」では意味が少し違う。 「誤認するな」というのは道徳的な命令ではないが、「いけない」というのは道徳的な禁止を含んでいる。 したがって、なめてはいけない、とは限らない。 だから、いけないかどうかは「なめる」とか「馬鹿にする」という言葉の意味にもよりますが、少なくとも「なめる」とか「馬鹿にする」という態度が内面の状態を言ってるなら、それを理由にしてなめている人に害を与える事は許されません。 内面がなめている状態であったために罰を受けても仕方が無い様な事をした人には、罰として害を及ぼす事は必ずしも間違っていませんが、それは行為に対する罰であって内面に対する罰ではありません。 なめてかかるからそんな事に成るんだ、と叱るのは間違ってませんが、それでも、義務として課す事が出来るのは禁止された行為をしない事までであり、なめない事を義務として課す事は出来ません。 また、内面がなめている状態でも行為についての義務が果たせているならば、それに対してのどんな罰や報復も許されません。 以上の事を分かっている人に仕事をなめてはいけないか否かを質問すると、質問された人は、往々にしてなめると失敗するものだからいけないとは言えるな、と考えて、「いけない」と答える可能性が有る。 質問した人がそれを理由にして、なめると他の人に失礼だ、という意見への賛成を得たと詭弁する。 もしなめてるんだったらお前に害を及ぼしても悪くないからそうするぞ、という意味で「なめとるんか」と恫喝された時に何も答えなかった事が私には何度も有るが、それは「なめる」という言葉が多義だからです。 これは(4e)で説明されている恫喝とは別の機会に別の人がです。 (4e)の恫喝は、まさかこんな人がこんな事を言うなんて、という種類の事ですが、ここで説明しているのは、「なめとるんか」と言いそうな感じの面識の無い人の話です。 「なめる」の内容が不当に損害を与える事ならば、なめてるなら私に害を及ぼしても悪くないけれど、「なめる」というのが私の内面の事を言ってるなら、なめていても私に害を及ぼす事は許されない。 「なめとるんか」という発言の意味は「何故あなたは私への恐れの為に私の罪を実際より控えめに言う事をしないのか、私の事を恐れていないのか」という意味だと解釈している。 つまり、他者がその様な恐れを抱く様に狙って行為するという罪を犯している者が、その様な恐れを相手が抱いていないかに見える事に不満を持ち、盗人猛々しくも、その不満を相手の「なめる」という罪のせいだとする逆さまな事を吹っ掛けて来ているわけです。 相手にとって如何に屈辱的な内容であっても正当な主張であるから平然と言ってのける、そういう事を私がした事への相手の反応がそれだった。 「なめている」と答えようかとも思ったが私が答えなかったのは、私の態度を「なめている」という言葉で表現しても間違いとは言えないが、その「なめている」では相手が私に手出しする正当な理由には成らない、手出しする正当な理由を「なめている」と言ってるなら私はなめていない、どちらの「なめている」か分からなかったからだ。 それとも、「はい、なめてます」と答えたのだったか。 この事情を説明しようかとも思ったが、そういう事をしても、それも相手にとっては「なめている」でしかない。 答えると相手が手出しして来そうだったから答えなかったのではない。 私は何も間違った事は考えていなかったのだから、その私の考えを「なめている」という言葉で表して相手に伝えても、どういう意味で「なめている」なのかハッキリ断っておき、こちらが先に手を出しさえしなければ、もし相手が殴り掛かって来て私が応戦しても、悪いのは相手だ。 しかし、「なめている」という言葉の曖昧さを放置したまま「なめている」と答えたのでは、私にも悪い所が有るとされてしまう恐れが有る。 これがその時の私の頭の中です、相手だった人は知っておくべきだろう。 私は、目の前に包丁を持ったアホが居る時にまで言葉を慎まない人ではない。 「なめとるんか」と言った相手に私が言葉を慎まなかったのは、その相手を包丁を持ったアホほどには脅威ではないと感じたからだ。 それは「なめている」という言葉で表現され得るがいけない事ではない。 それなのに「なめる」という言葉を使ったのでは、まるで悪い事でもしているかの様に聞こえるではないか。 誤解される様に狙って人聞きが悪い事を言う、これは物は言いようである事の悪用である場合も有るが、それだけでなく全くのウソである場合も有る。 「自由」の事を「勝手」とか「言う事を聞かない」と言い換える詭弁も有る。 自由という当然の権利も、「勝手」とか「言う事を聞かない」という言葉で表現すれば、まるで悪い事でもしているかの様に聞こえる。 高校生の時に廊下でガスライティングと呼ばれる種類の犯罪を見とがめた事が有る。 被害者は私ではない。 その時に犯人が「こうしないとみんなが勝手な事をする」と言った。 それを聞いた私は「だからしたんですね」と聞き返した。 すると犯人は「今のは無かった事にしてくれ」と言って去った。 ガスライティングは犯人が「していない」と言って白を切り通さないと成立しない。 それなのに、この犯人は、うかつにも「こうしないとみんなが勝手な事をする」と言って白状してしまったので、許す様に頼むしかなくなったのだ。 ガスライティングをしたと白状しても、それはみんなが勝手な事をするのを防ぐ為の正当な行為なんだ、という言い分が正しいのなら無かった事にしてくれと頼む必要は無い。 無かった事にしてくれと頼んだという事は、犯人が自分で「こうしないとみんなが勝手な事をする」という道理の弱さに途中で気付いた証拠だ。 この人が犯人に成ったのも、勝手という言葉の曖昧さで煙に巻かれて劣人主党に取り込まれたからだろう。 まだ高校生である人の一体どんな選択が勝手だからいけないと言えるだろうか。 そんな物は有りはしない。 つまり、その人の自由に属する事を勝手だと言い換える事によって、犯人は間違った意見を通そうとしているのである。 私自身にガスライティングが仕掛けられた事もあったが、それも丁度その頃だったのだろう。 この件が前件への報復や事後的な揉み消し工作だった可能性も有る。 時間的な順序によっては、そういう事に成る。 その件については、私が到来した第3者に向かって痕跡を指さし、その第3者が「あ、ホントだ」と分かり驚いた事によって、辛くも事無きを得た。 そんな際どい事に身の安全が掛かっている様ではいけない事が法律の運用や法律が満たすべき必要条件である、のは明らかだ。 だから当時の私は根底においては安心していた。 それが違うと分かったのは40歳を過ぎてからです。 その時の私が、この種の犯罪や犯人を表現するには糞という言葉でも足りないと考えたのは、そのためです。 その第3者も、私の頭がおかしいと証言させる為に犯人によって送り込まれた善意の第3者だったのではないか。 到来するタイミングが不自然に丁度だった。 また、私が通っていた高校にアメリカ人の物理学者が来て、教室前端に立っているその人を同じ教室の生徒席から見た事が私には有る。 何故そんな人が来たのだろうか。 送り込んだ刺客が全員返り討ちにされたので私の様子を自分の目で見て確認せずには居られなくなったか、その義務を課せられたのではないか。 宇田君これをどう思うか?と色々質問された事が有ったが、それは、これらの危機をしのいだ直後だったのだろう。 今まで誰も勝てなかった犯罪に宇田君が勝ったので、宇田君オレのも聞いてくれ、という風に殺到したわけだ。 複数の生徒から次の様な質問をされた。 ・ 近くに笑っている人が居た場合、自分が笑われているとは限らないのは勿論だが、自分が笑われているのではないとも限らないよね? ・ 靴を履いた時に足裏が触覚で異常を感じる様にするには靴にどの様な細工をすればよいか? ・ 飛行機の具体的な墜落事故について、その原因を何だと思うか? ・ トンネルの天井が崩落した事故は事故ではなく犯罪だと思わないか? 笑う人については、自分が笑われているのではないとも限らない、と答えた。 「お前を笑ったんじゃない」「自分が笑われたと思うなんて被害妄想だ」と言われたのだろう。 靴については、その時には分からなかったが、40歳を過ぎてから自分がそういう犯罪を仕掛けられた。 その時に自分の靴を分解してみたが何の痕跡も見付からなかった。 それで思ったのだが、靴底を折り曲げるぐらい強く曲げて元に戻すと何層も重なっている靴底材が相対的にズレてそう成るのではないか。 しかしまあ、先述した様に、個々の犯罪の具体的手口を解明する方向に向かった(犯人につきあった)のでは、犯人の思うツボである。 犯人につきあってはいけない、程々にしておいた方がよい。 私が靴にそういう犯罪をされた頃には、靴に毒薬を塗って怪我をさせた等の犯罪のニュースを複数聞いた。 飛行機については、質問された当時はついでの質問だと思ったが、それも劣人主主義がする犯罪だと考えられているからそこで話題に上ったのだと今では思っている。 飛行機の墜落の原因は、衛星放送の特集番組を見るまで、ずっと私にも分からなかった。 何十年も後に成って見た衛星放送の特集番組で、質問された飛行機墜落が解説されていた。 トンネルについては私は答えなかった。 答えなかったのは、その犯罪に私がお墨付きを与えたのを思い出したからだ。 トンネルを作る仕事は損な役だからトンネルを作る仕事で事故を起こす仕掛けをしても良いですよね、と言われて「はい」と答えた事が私には有った。 知らず知らずのうちに私にも劣人主主義の毒が回っていたのである。 この様な調子で騙しに掛かって来るので気を付けて下さい。 何かの機会に私が劣人主主義者から信じ込まされた事を理由として言うと、それを聞いた人が「違うんだってば、こいつらのは」と言った事が有る。 その高校では私は、通貨について宇田経済学の原点に当たる考え方を他生徒に言った事が有る。 通貨の機能は本質的には記録、計算、証拠の3つだ、という考えです。 高校生当時は言い方は違ったかもしれない。 それは質問への答えだったと思う。 そう言われた相手の生徒は、通貨も商品だ、と言って譲らなかった。 私にガスライティングが仕掛けられたのは、それへの反応かもしれない。 2012年に自分のホームページに宇田経済学を連載し始めたのと私への犯罪の激化のタイミングも一致しているからだ。 私が通った高校は入学試験が非常に難しい中高一貫エリート校だったのだが、そこに中学入試で不合格に成るよりずっと前に両親以外の大人から、生物個体としての抜群の優秀性を活かした生き方を選択するならその学校に行け、と説明された事が有る。 優れた人であっても、その学校に行かなければ優れた人として生きて行く事は出来ない、というニュアンスだった。 ここで、劣人主主義と優人主主義の対立の話とつながって来るわけである。 つまり、そういう学校は優れた人を劣人主主義の犯罪から保護する社会装置として存在していたらしい。 その学校の中でまで劣人主主義の犯罪が行なわれていた事は、貴重な判断材料である。 それよりもっと幼い頃には人間として生きるか動物として生きるか選べと言われた事も有る。 これは、正しい事は正しい、間違っている事は間違っていると言って聞かないなら、お前の人権を剥奪するぞ、という脅迫です。 幼かった当時の私もそう解釈しました。 昭和の時代には「オレの勝手だろ」「私の勝手でしょ」という台詞が多く聞かれた。 これは、自由に賛成する立場の人が権利を主張する意味で言う場合と、自由に反対する立場の人が自由を使って嫌がらせをしたり自由の評判を低下させる目的で言う場合の両方が有った。 志村けんさんの「カラスの勝手でしょ」というギャグも、そういう風潮がそれまでに無い新しい風潮だった事を示す証拠だろう。 つまり、自由を勝手と言い換えて否定すれば今まで誰も言い返せなかったのに、自由を不当に悪く言う為に用意した勝手と言う言葉を開き直って「勝手でしょ」と言われてしまったのでは、犯人は目が点になって閉口するしかない、という事だったのではないか。 2020年頃までには裁判の判決で「身勝手」という言葉が使われる新傾向が始まっています。 これも要注意です。 ひとりだけ問題が解けた人や自分たちの犯罪を巧みに防いだ人に親しげに「ずるい」と言うのを聞いた事がありませんか、あれが奴隷道徳です。 「ずるい」についてここに書き始める直前に、その準備としてオフラインで「ずるい」をメモすると直ぐに、テレビでイタリア語では「ずるい」は褒め言葉だという放送が有りました。 変ですねえ。 それはさておき、私は、もとから「ずるい」を褒め言葉として使っている言語圏の人にまで嫌疑を掛けているわけではありません。 「ずるい」が褒め言葉だと決まっているなら問題は無いのです。 「ずるい」と言ったのでは褒めているのか責めているのかどちらなのか分からない場で、特に「ずるい」の正規用法は責める意味だと相場が決まっている地域で、機転を利かせて「ずるい」の粋な用法を新規に発したのだと聞いた人が誤解する様に狙って、「ずるい」と言い、それが受け入れられた事を理由に責める意味で「ずるい」とする主張が受け入れられたと詭弁する事が何度も有った、それが奴隷道徳の犯罪の一例だ、と私は言っている。 あるいは、「ずるい」と言われた人に「ずるい」と言われた行為を自粛させる事が狙われている。 「ずるい」と言われた人の隣に居た人が私に「ずるくないよね」と言ってたずねてくれた事が有る。 そういう事はそれ1回だけですが、この事は「ずるい」という発言がおかしい発言だった証拠です。 私は「ずるい」の意味を深く考えすぎて「ずるくない」と答える事が出来なかったのを後悔しています。 この様に、言葉の意味が曖昧で答え難い、とっさで些細だから聞き流してしまって反応しない、そのギリギリのラインを狙って「ずるい」と言うわけです。 最大の犯罪は社会が間違っている事だ、という私の意見に照らすと「反社会的勢力」という言葉は極めて誤解を招き易い。 あんた社会主義者なんか、と思いませんか。 おかしいんですよ、この言葉。 社会という物に否定的な私の意見は、社会という概念で物事を解決しようとする態度を過度に押し進めるな、という意見であり、反社会主義と呼んでも間違いでは有りません。 無政府主義や小さな政府と同じ方向性です。 これに対して、反社会的勢力という言葉は、我々の現行の社会に敵対する勢力という意味で使われています。 それを反社会的勢力と呼んだのでは、どちらなのか分からないじゃないか。 悪意を感じる。 私に言わせれば、反社会的勢力と呼ばれている勢力の方が社会的なんだよ。 「~に・・・して頂く」と表現されるのが正しい事を口裏を合わせて「~が・・・して頂く」と表現する工作が2021年より何年も前から始まっています。 「~に・・・して頂く」および「~が・・・して下さる」という音声がテレビから聞こえて来る事が全く無くなっています。 ここに私がこう書いたから、これからそれを確認しようとしても出来なく成る可能性が有りますが、既に気付いている人も居るでしょう。 御飯を食べる時に「頂きます」と言います。 つまり、頂くとは受ける事であり、与える事では有りません。 「・・・して頂く」という表現は「・・・される」という受動態の謙譲語表現です。 だから、「~が・・・して頂く」とは「誰かが~に・・・する」という意味です。 この場合、「・・・する」のは「~」ではありません。 それなのに、「~が・・・する」事を「~が・・・して頂く」と表現する人が増えているのです。 ここで私がこの例を持ち出したのは、この変化がまるで元からそうですけどとしらばくれるかの様に組織的に日本全国で一斉に行なわれているからです。 「~が・・・する」事を「~が・・・して頂く」と表現する人が最初少しだけ現れその後段々と増えるのではなく、申し合わせた様に全員が異口同音にそう言う様に成った、それについて申し合わせた様にピタリと口をつぐんで誰も何も言わない、この異常さです。 「~が・・・する」事を「~が・・・して頂く」と表現する人と「~に・・・して頂く」と表現する人の両方が居れば、テレビの視聴者が変化に気付いてしまいます。 間違ってますよと注意する人が居ても、そうです。 だから、この変化は、テレビの視聴者に気付かれずにコッソリと言葉の意味を逆転させるという極めて悪質な工作です。 それも、極めて広範囲の人が全員で結託してこれを行なっている。 有るわけないはずの、そういう恐ろしい工作が実際に存在する証拠です。 ちなみにテレビのアナウンサーはテレビ局が作文した文章としては「~が・・・する」事を「~が・・・して頂く」と言った事は無いが、政治家等の発言の引用としてこの誤用をちゃっかり繰り返し発声して視聴者の脳にすり込んでいます。 「頂く」の意味が逆転したら大変です。 与えた者が与えられた事に、与えられた者が与えた事に、被害者が加害者に、加害者が被害者に、勝った者が負けた者に、負けた者が勝った者に、すりかえられてしまいます。 そこが狙われている疑いが有る。 これは、通貨によって「与える」「与えられる」の関係が逆転している事も、同じ動機による犯罪の結果である事を推測させます。 心臓の鼓動を表す擬態語は昔は「ドキドキ」でしたが、いつ頃からか「バクバク」に変わりました。 これも不審な事に変わってからは「ドキドキ」を全く聞かなく成りました。 ドキドキは心筋・心電を表現し、バクバクは心室内の弁の挙動を表現している、その意味では、どちらも正しい。 この変更も、言行の外形については何らの正義にも違反してなくても、狙いが不正なので不正だと私は考えます。 まず、言葉の音韻的印象が、人間の尊厳を貶める嫌な印象だという点です。 例えば殺人の罪の重さを本来の重さよりも軽いと感じる人を増やす作用が、この変更には有るでしょう。 人間の尊厳が損なわれる事をあざ笑う様なとても嫌なニュアンスです。 この点については、医者が犯源でありそうだという印象をものすごく受けます。 音韻的印象とは別に、心身の連関の存在を信じられなくする工作だと感じます。 被写体が驚いている様子を撮影するドッキリカメラというテレビ番組が有りますが、あれをバックリカメラとかバックンカメラと改名したのでは言いたい事が伝わらなくなる。 この様に、ドキドキは心理に直結しているけれど、バクバクはほとんど生理だけです。 心労によって目が見えなく成ったり言葉がしゃべれなく成ったり心臓病などの内臓疾患が生じたりという因果関係が有ると聞くし、私自身も自分の心身でそうだと実感します。 この因果関係を無いんだと言って白を切り通す工作の部品がバクバクなのだと思う。 それは、犯人が被害者に情報で危害を加えるからです。 因果関係が有ればそれは傷害罪に成ってしまう。 ハラスメントという言葉の使い方もおかしい。 ハラスメントとは嫌がらせの事だと聞く。 念のために英和辞典で調べると「harassment」は「悩ますこと」だと書いてあった。 和英辞典では「嫌がらせをやる」という意味の英語に「harass」が有ると書いてあった。 2020年までには優越的地位を悪用して男が女に性交を強要する事は全てセクシャルハラスメント(性的嫌がらせ)という言葉で表現される様に成った。 しかし、犯人はそれを嫌がらせでやってるわけではないでしょう。 嫌がらせというのは、被害者が嫌がるという形の損害を被る事を目的とする行為だ。 嫌がらせる事によって犯人が満足するのが目的だという意味では、究極的にはそれも犯人が利益を得るのが目的だとも言えるが、被害者に損害を与えるという目的が中間に存在している。 優越的地位を悪用して性交を強要するという犯罪は、被害者に損害を与える事を目的とする場合も有るだろうけれど、ほとんどの場合は犯人が得をするのが目的だ。 これは嫌がらせではない。 パワハラ(パワーハラスメント)にしてもそうだ。 基本的に嫌がらせという物は弱者が強者にするものである。 強者が弱者にする露骨な力の行使は嫌がらせではない。 強者が弱者に行なう不当な攻撃は「嫌がらせ」ではなく「イジメ」「弱い者イジメ」と呼ばれるのだったはずだがなあ。 弱者が強者に反撃の正当理由を与えない様に行なう攻撃が嫌がらせである。 強者が弱者に露骨な力の行使を行なう為の正当理由を成立させる為に行なう攻撃も嫌がらせだが、弱者が強者に行なう嫌がらせも、強者が弱者に行なう嫌がらせも、何を狙って何をしたという事実を犯人が否定するウソをついて白を切る事とセットに成っており、その為には露骨でない曖昧な言動である必要が有るので、どちらも露骨な力の行使とは違う。 弱者が強者に行なう嫌がらせも、第3者が介入して強者を罰する様に狙って、強者が嫌がらせに反撃する様に狙って行なうのであれば、それは、弱者が強者に対して行なう嫌がらせではなく、弱者を装った強者が強者だと誤認され易い弱者に行なう嫌がらせである。 これを弱者が強者に行なう嫌がらせだと言うのは劣人主主義の屁理屈である。 勝つ様に成ってる方が強者、負ける様に成ってる方が弱者、それが強弱の定義だから、本当の意味で弱者が強者に行なう嫌がらせは、強者が反撃したら弱者は誰にも助けてもらえない、そういう状況下で、強者の反撃のスイッチが入らない程度に恐る恐るするものである。 負け犬の遠吠えは嫌がらせの一例だと考えられるが、負け犬の遠吠えは、強者の反撃のスイッチが入っても逃げ果せるぐらい十分に離れて行なわれる。 また、強度についても、被害者が嫌だと思うに過ぎない程度の攻撃が嫌がらせであって、被害者が痛いとか苦しいと感じる攻撃を嫌がらせとは言わない。 痛がらせでも苦しめでも悲しめでもないから、嫌がらせと言うのだ。 従がって、痛がらせや苦しめや悲しめを嫌がらせと呼ぶ事は犯罪を実際より小さく言って犯人をかばう矮小化です。 モラルハラスメントとかマタニティーハラスメントとまで言うのを聞くに至っては、それじゃあ対人不正は全てハラスメントなのか、と言いたい。 そんな事を言うんだったら、それなら、六法全書は六ハラスメント全書なのか、殺人は殺ハラスメントなのか、法律を最初から全部言い直す気か、って言うんだよ。 こんなひどい言語かく乱に誰も何も言わずに唯々諾々としている。 自浄能力を完全喪失したこの状態は、言論の自由が実質上は危険なまでに抑圧されている証拠のひとつだし、また「~ハラスメント」という形の言葉を発信した他国をリードして来た文化圏の文化が壊れ始めている表れでもある。 私がまだ20歳台だった頃(数十年前)に「もういいい」ないし「もうええ」という言葉の変な用法を耳にし始め、それは今でも続いている。 それ以前にはこの言い方を聞いた事が無い。 それは、加害者が被害者から抗議を受けている時に被害者の発言を「もういい」という言葉で制止する用法です。 私とあまり年齢が離れていない青年男性がこの言い方を使う、この言葉使いも劣人主主義文化だ、という風に私は認識している。 私は第3者として間近で傍聴した経験しかなく自分が言われた事は無いと思うが、それでも聞く度に毎回引っ掛かるし、引っ掛かるだけでなく「何を言ってるんだ」と腹が立つ。 「もういい」というのは論理的には「もう十分だ」「これ以上は必要ない」という意味です。 これは権利者が義務者に何かをさせたり言わせたりしている時に既に義務が果たされた事を告げるのが基本的な用法です。 そこには、権利者が義務者に合格である旨を言い渡す、という前提が存在しています。 かくれんぼの「もういいよ」の「もういい」であり、言われる人は早く言われたいと待っている言葉です。 したがって、「これ以上は許さない」という意味を伝える為の婉曲表現として「もういい」を使うのを、私は正しい言語表現として認めないし、少なくとも嫌らしい言い方として忌み嫌っている。 「もういけない」じゃなくて「もういい」なんだから。 解雇つまり「明日から来てはいけない」事を告げる為に「明日から来なくていい」と言うのも同様です。 来たくないと思っている人になら、来なくていいと言うだけで、その人は来なく成るでしょう。 それは、来てはいけないと言うよりは聞き手に優しい正しい婉曲表現です。 しかし、解雇は誰でもされたくないと思っている事です。 つまり、来なくていいという言葉で解雇を告げる事は、来続けたいと思っている人に向かっての発言です。 来続けたいのだから、本当なら、聞き手は明日からも来ます。 それでも、来なくていいという言いつけにそむいた事には成らないからです。 それなのに来なかったら、それは、来るなと言われたから来なかったのではなく来たくないから来なかったのだ、という事にされてしまいます。 来るなとは誰も言ってませんよ、というわけです。 それではという事で明日も出社したら、来なくていいというのが聞こえなかったのか、と責められる。 嫌らしいじゃないですか。 権利者が義務者に向かって言うのであっても嫌らしいが、それでも、権利者が義務者に向かって言う場合には、2つの前提のうちの片方は成り立っています。 それに対して、加害者が被害者の発言を制止する為に「もういい」と言う場合には、罪を責められる立場という意味での義務者が罪を責める立場という意味での権利者に向かって、発言をこれ以上は許さないという意味で使っているので、2つの前提の両方が逆転されています。 それに加えて、これ以上は許さないという態度も間違っています。 これは、加害者が被害者から加害の罪を言い咎められる事によって負けてカッコ悪く成った分だけ逆に加害者の方が被害者の罪を許してやったかの様に誤魔化すインチキな言い方に成っている、という事です。 加害者が被害者の謝罪の言葉を「もういい」と言って制止するなら分かる。 その逆に成ってるではないか、という事です。 「結構です」という言葉で拒絶の意思を伝えられたセールスマンが商品を送り付けて「結構ですと言われたからだ」と開き直った、というニュースを聞いた事が有り、これはセールスマンが悪いけれど、「結構です」という言葉で拒絶の意思を伝える事への痛烈な皮肉としてはザマーミロと私は思うんですよ。 その意味で「もうこれ以上はいい」という言い方も本当は間違っている。 食事中に「もういい」という言葉で満腹である事を表現するのも、直訳すると「もう十分です」という意味です。 これ以上は無理という意味でそう言う場合も多いけれど、これが嫌らしくないのは、食べる事は利益である、という価値観が前提に存在しているからです。 この価値観に異を唱えづらい事に付け込んで「もういい」という言い方をさせる事は嫌らしいけれど、それは「もういい」と発言する事が嫌らしいのではなく、そう発言させる事が嫌らしいわけです。 「もういい」という言葉で制止するのが妥当なのは、「もういい」と発言する人がされたいと思っている事です。 「もういい」と発言する人がされたくないと感じている言動を制止するのに「もういい」と言うのは間違っている。 それなのに、そういう間違った言い方をする。 それは言葉によって聞き手に出来るだけ大きな損害を与えようとするからです。 つまり、聞き手を辱め貶め傷付けようとしているわけです。 近年の言葉狩りの強化に対して「どの口が言ってるんだ」と強い反発を私が感じるのは、この様な言葉を使った対人虐待の犯人と言葉狩りの推進者が劣人主主義者という同一犯だからだ。 アレはいけませんコレはいけません、という劣人主主義者の主張は、どれも、自分達が負ける原因に成っている事にだけ向けられ、自分達が勝つために使う手段には全く向けられないのである。 物は言い様。言い方で誤魔化し言い方で「うん」と言わせる。曖昧な言葉の曖昧さを悪用する。 失礼、不愉快、非常識、ずうずうしい、ひどい、こわい ものは言い様である事を悪用して善悪を逆転させる不正。 した方がよい事としなければいけない事のすりかえ。 (4g5) 数十キロ離れた道の駅に自転車で行った時、そこで大きな犬と小さな犬が並んで飼い主らしい人数人と一緒に徐行しているのを見た。 大きい犬は悠然と優しい感じで居たが、それに向かって至近距離で小さい犬が激しく吠え立てている。 大きい犬はそれに全く反応しない。 飼い主らしい人が、それを犬の大きさの違いが原因だと説明した。 つまり、動物としての本能から判断すると、劣った人と優れた人では、劣った人が優れた人を滅ぼさないと自分たちが危ないと感じて攻撃するという事の方が、優れた人が劣った人を侮って攻撃する事よりもありがちだ、と判断できる。 従がって、ソーユーヤツは犯罪を犯す、と言われるべき人は、劣った人であるのに、実際には、劣った人が優れた人に優秀性の発揮をやめるように要求し、優れた人がその要求を断ると、劣った人が優れた人に向かって、ソーユーヤツは犯罪を犯す、ソーユーヤツは犯罪を犯す、と言うのは、逆さまである。 そして、劣った人が優れた人に対して行なう犯罪は、犯罪させるという犯罪である事を意味している。 自分たちが否定したい事を言葉で肯定するなど、逆さまな事を言うという手口は、劣った人の連帯による犯罪の手口の基本だと私は考えている。 それとは別に、動物園か何かで、武器が無ければ自分より格闘能力が優れている猛獣か何かに観客の中年男性のひとりが優越感を感じている表現を一瞬見せたのを見た事が有る。 それを見る私の眼差しを何だろうと思った人が居たなら、それはここに書いている様な事です。 つまり、個人はその猛獣よりも優れているわけではなく、ただ環境に恵まれているだけなのに、それを優れていると錯覚しようと努める傾向が有る。 劣った人はそのぐらい優劣を気にしている、という事です。 他者を可能な限り自分より劣ったものとして認識しようと努め、そのくせに、他者が自分を劣っていると認識する事は許さない、尊敬しろと言う、これでは筋が通らないのである。 そして、その問題を社会という手段で何とかしたい、という誘惑に常に晒されている。 社会という手段によったのでは優劣を変える事は出来ないのだけれど、してはいけないと言いたいけれどしてもよい事をやめさせるために「しなくてよい」と繰り返す言う様に、社会を手段として使って「自分の方が恵まれている」と繰り返し自分に言い聞かせるのである。 「しなくてよい」と幾ら繰り返して言っても「してはいけない」という意味には成らないし、「恵まれている」と幾ら繰り返して言っても「優れている」という意味には成らない。 (4g6) 寒過ぎるの(社会主義)と暑過ぎるの(自由主義)とどちらにしますか。過労死するか餓死するか。 適度の選択肢を故意に無くしている。 義務・労働の過酷さ。 優れた行ないを出来なくする。冷やす。自分も寒いけど差が小さくなる。欲しがりません勝つまでは 仕事で尊敬されない人は自ら仕事を大変にして大変さで尊敬されようとしたり大変さで拷問したりする 働きで馬鹿にされる人は大変さで尊敬されようとする。 自傷行為。余裕を奪って優れた人の動きを封じる為に自ら苦境に立つ。 みんなが苦しんでる時にお前は何だ。サッカーのオフサイドトラップみたい。 事故や災害のマッチポンプ、戦争。 高級な仕事が出来る人は誰も低級な仕事しか出来ない人にオラオラもっと働けと言ったりはしないのに実際には、無茶に働かされて死んだりする人が多いし、死ななくても無茶に働かされている人は多い。 これは、低級な仕事の人の中の「お利口さんねえ」と言われて怒るタイプの人による自傷行為だ、と私は思っている。 ごまめの歯ぎしりがもとになっている、という意見です。 もうひとつは、自分の意義を自分の働きに見出せない程度の人がカネを手段として自分の意義を作り出そうとするからだろう。 どちらも、高級な仕事の出来る人から見下されるタイプの人だ。 「お利口さんねえ」と言われて安心するタイプの人は、これらの人たちの被害者であり、悪いのは人を見下す人であり、全部そいつらのせいだ、と吹き込まれている。 違いますか。 この被害者は、不正に由来しない不名誉に文句は無い、という正義の人であり、劣っていれば必ず悪いというわけではない。 自由主義社会で勇気を持って賭けても成功の確率は低いとは言っても、実際に我々が見聞きしている結果ほどには低くないのではないか。 それは、劣人主主義者が組織的な不買を掛けるせいで、そうなるのではないか。 劣人主主義者にとっては、自分で勝手に成功する人は1人も居てはいけないのだから、実際の成功者は全て談合の産物なのかもしれない。 ニュートンの仕事はケプラーの仕事に従属するという意見の例の先生から聞いた話に、主人道徳の悪い所を知る事が出来る話が有りました。 それは、外国で働いた時に出来ない事も出来るふりをしないと雇われ続ける事が出来なかった、とか、アメリカでは採用される為の交渉で報酬を自分から言わされそれが高過ぎると不採用に成る、といった話です。 これらは、主人道徳が悪いのではないかもしれませんが、主人道徳を標榜する側の人々が名目は主人道徳だけど実質は奴隷道徳だ、という事だと私は解釈しています。 主人道徳を標榜する人々の社会で主人道徳を真に受けた人が主人道徳に従がって正々堂々と勝負しようとしても主人道徳とは名ばかりで陰でコソコソと奴隷道徳の密約が通用している、もちろん主人道徳でやってますとも、おかしいですねえどこも主人道徳に違反してないんですけどねえ、という風に白を切られる、それが実態なのかもしれないが、それは主人道徳のせいではない。 資本主義国の法律は奴隷道徳よりも主人道徳が基調と成っているだろう。 国民のひとりひとりがひとつの国の様に扱われている。 つまり私は、奴隷道徳を批判したからと言って、主人道徳を標榜する人を正しいと言ってるわけではない、という事です。 きりがないので、このぐらいにします。 私の考えをもっと知りたい人は私の他のウェブサイトを見て下さい。 社会を手段とする劣った人による犯罪の被害者は、説明を求められた時に、このページに私が書いた様な事が一度にワッと思い浮かびます。 しかし、私の様に言葉で説明できる人は居ません。 私でも、何日もかけて必要な事を思い出しながら、推敲に推敲を重ねて、やっとコレです。 それは、並の人間には無理であるばかりか、かなり優れた人でも無理だろう。 それを説明しろと言われても上手く言えない、それ以前の問題として、そもそも個々の出来事を思い出せない。 それは丁度、このページのお経の文字数が多過ぎて、このページを開く時に時代遅れの低性能パソコンではフリーズしてしまう、そういう状況です。 それを良い事に、そこを捉えて「意味不明な事を言っている」「支離滅裂な事を言っている」という言い掛かりを付ける事までが、劣った人による犯罪ではセットに成っています。 そうでなくても、被害の山の様な蓄積によって何年もかけて段々と被害者の言う事がキツく成って行く。 私の場合、そろそろ出来上がったぞ、という頃を見計らって若いへなへな調の小男の2人組やうんこ風の大男の2人組が来て私に質問する。 私が親切に正直に答えると、2人組の片方がもう片方に「よし、やるぞ」と言う。 私の答えに非常に満足したようだ。 もう片方は答えない。 すると「よし、やるぞ」と言った男がもう片方に「なあ、何がいけないと言うんだ、もう、するぞお」と言う。 こういう事が何度も有った。 つまり、奴隷道徳に違反した思想を持ってないか私の思想を調査しに来た、明白な違反が確認されたので暴力による制裁を開始する、という態度なのだ。 私の内面がけしからん状態に成っていると分かったのに、何故それに満足して喜ぶのだろうか。 それは、最初から暴力で加害する計画だったから、そのために被害者がキツい事を言う人に成る様に長年に渡ってか害するからだ。 私がホームページを始めたばかりの頃、お前が何を言っても誰も読んじゃいないんだよう、という悪口を言う人が居ましたが、その人は、長年に渡って私にして来た犯罪に、さぞかし心当たりが有るのでしょう。 大人というものは子供を馬鹿にします。 しかし、長く生きる事によって人間そんなに成長するものかなあ、という点が私は子供の頃から疑問でした。 武道や学問での事なら分かりますが、武道や学問なんてしてない大人がほとんどです。 つまり、大人が子供を馬鹿にするのは、知ってるか知ってないか、の点でなわけです。 それも、長い人生経験によってのみ得られる人生の極意の様な事を知ってるか知ってないか、というなら分かりますが、そういうのでもない。 このページに書かれている様な事を奴隷道徳に賛成や屈服する立場から表面的に知ってるかどうか、です。 この世を支配しているのは奴隷道徳であり誰もそれには逆らえないんだ、という事に共感したり諦めたりして、それはお前らが今までに教えられて来た建前とは全然違うんだよ、という風に大人は子供を馬鹿にするわけです。 このページを読めば分かるように、それは、難解なので子供には理解できない、大人でなければ理解できない、というような事ではありません。 それは、大人であれば劣った人でも子供より優位に立たせる屁理屈ですから、そうである必要が有るわけです。 子供でも分かるんなら小学校で教えれば良いじゃないか、大切な事なんだから。 それをしないのは、そんな事をしたら大人の子供に対する優位が消失してしまうからです。 大人が子供より強いのは、悪巧みを大人だけで共有して子供に教えない様にしているからです。 「あの頃は若くて怖いもの知らずだった」という決まり文句が有りますが、これがその証拠です。 こんなくだらない事で大人は子供に絶対に負けない様に仕組んで威張っているわけです。 子供には分からない苦労が大人には有るんだって、それは、こんなくだらない事なんですよ。 ほとんどの大人は成長なんてしないんですよ、齢を取るだけで。 人生の極意?ないない、そんなもん。 そのくせに子供には馬鹿にされたくない。 これが犯罪の動機に成るわけです。 やっぱりか、と言うわけです。 2021.02.13 - 2021.04.25 |
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