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COM-1-17 初等力学正典

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 問題44 














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[補足説明欄]

基礎的な力の法則とは何か、「こうです」という答えを読んだ覚えが無いので、定義を私が勝手に作りながら以下に書きます。
だから、私が以下に書く事には、少しぐらいは見当違いが含まれているかもしれません。
それでも、(私が説明を)しないよりはマシです。
なぜなら「基礎的な」という言葉の意味を知り、この言葉を正しく使える様に成る事は、物理学においてのみならず、科学一般においても、そのぐらい重要かつ必要な事だからです。
また、私が以下に書く事は、私独自の見解ではなく、物理学の学習で、ある程度以上高いレベルに達した人なら誰でも知っている事です。
それなのに明文化される事は無いか希だと思います。
分かってる人は、話し相手も分かってる事を当然の前提として話をし、基礎的とはどういう事かを説明しないので、もし相手が分かってない人なら話は通じないし、非明文化の連鎖が続きます。
さて本論。
基礎的な力の法則とは、以下の3つの条件を全て満たす力の法則の事です。
[条件1] (物理的)実在の構成要素(これも物理的実在です)が及ぼし合う力の法則である。
[条件2] 適用範囲が無制限である。
[条件3] 近似的にではなく正確に成り立つ。
例えば、野球のボールが飛行中に受ける空気抵抗力を記述する法則は、基礎的な力の法則ではありません。
野球のボールは物理的実在の構成要素ではなく、多数の要素の複合体です。
要素とは(物質の)素粒子の事です。
素粒子が何であるかは、過去にはまず分子だと考えられ、次に原子、そして今では(別の何かの方がもっと素であるとする仮説が研究されているという保留付きで)クォークとレプトンだと考えられています。
要素としては物質の素粒子以外に(力を媒介する)が有ります。
電磁場は力を媒介する場です。
野球のボールは素粒子ではないので、それが受ける力の法則は条件1を満たしません。
抵抗力の大きさが飛行速さに比例するとか、飛行速さの2乗に比例するといった、飛行物体に働く空気抵抗力の法則は、例えば音速の壁を思い出せば分かる様に、飛行速度がある程度以下でないと成り立ちません。
流体力学を妥協なく用いれば、音速以下から音速以上まで通して成り立つ法則を書く事が出来るかもしれませんが、それでも、野球のボールの飛行速度が大多数の空気分子の飛行速度を超えている状況では、その法則も成り立たなく成るでしょう。
これは、野球のボールに働く空気抵抗力の法則が条件2を満たさない、という事です。
空気分子の飛行速度すら考慮に入れた法則を書けば、条件2に反しない様にする事が出来るかもしれませんが、それでも、あくまで条件2についてだけです。
時間的にも空間的にもミクロの目で見れば、野球のボールへの空気分子の衝突は野球のボールの質量中心の運動にブラウン運動を混入させるはずです。
それは、野球のボールの大きさや運動の概略に比べて非常に非常にわずかですが、皆無ではありません。
これは、野球のボールに働く空気抵抗力の法則が条件3を満たさない、という事です。
力の法則が基礎的であるとはどういう事かを説明する為に、以上では、飛行物体に働く空気抵抗力の法則を例に取って、それが基礎的ではない事を説明しました。
テイラー級数展開できる関数 f は、x = 0 付近での f(x) の値だけから x の全ての値に対する f(x) の値が決まります。
この事は次の推測を生む点で非常に教訓的です。
条件2が成り立たないなら条件3も成り立っていないのだろう。
飛行物体に働く空気抵抗力の法則を例に取れば、この事は、飛行速度がある程度以上大きければ成り立たない法則は、飛行速度が小さい時にも完全に正確なわけではないだろう、という事です。
さて次に「現象論的な」という言葉の意味ですが、「現象論的な」は「基礎的な」の反対語だと思って下さい。
飛行中の野球のボールに働く空気抵抗力の法則は現象論的な法則です。
第2章[2]で話題にした色々な力の法則は、万有引力の法則に該当する部分と電磁力を除けば、全て現象論的な力の法則です。
現象論的な法則は、基礎法則から近似式として導き出されたり、あるいは経験則として成り立つ事が分かっているが未だ基礎法則との論理的なつながりが分かっていない、そういう法則です。
力の法則は、上記の[条件1][条件2][条件3]のうちのいずれか1つでも欠けていれば、現象論的な法則です。
相対性理論正典第2章§2-4[2]において、万有引力の法則は、基礎法則ではなく現象論的な法則である事が、明らかにされます。
これは万有引力の法則の実質的な格下げです。
「基礎的な」という意味の英単語は「fundamental」です。
「basic」ではありません。
ベクトル空間の基底を意味する英単語が「basis」である事や英和辞典に「basic」の意味として「基礎の」も書かれている事から判断して、「basic」という単語はその本来の意味からして「基礎的な」という意味には成り得ないというわけではありません。
しかし物理学の硬い文献においては「基礎的な」という意味を表すには必ず「fundamental」という単語が用いられます。
基礎物理学 = fundamental physics,
数学的基礎 = mathematical foundation (fundamentalとfoundationの語源は違うかもしれません)、
です。
「basic」と言うと「初歩的な」という意味に成ってしまいます。
因みに「現象論」を意味する英単語は「phenomenology」であり、「現象論的な」という意味を「有効」とか「実効」という別の単語(effective)で表す事も有ります。
物理学の文献中で Veff という記号を見たら、これだと思って下さい。
この記号中の eff は、effective の略記であり、とことん突き詰めた話をしているのではない、現象論に過ぎませんよ、という事を表現しています。
ただし Veff には、そういうネガティヴなニュアンスだけでなく、基礎理論を応用して得られた産物(計算結果)というポジティヴなニュアンスも有ります。
応用が目的の人や実験物理学者にとっては、そっちでしょう。
当典のここまでの記事を見ても分かる様に、物理学の学習においては、現象論的な力の法則の方が、基礎的な力の法則よりも早く登場するのが普通です。
この事は、物理学の学習においては基礎的な事項は初歩的ではない事、を意味します。
教育業用語としては「初歩的な」という意味が「elementary」という英単語で表されているのも多く見られます。
つまり教育業用語としては「初歩的な」=「basic」=「elementary」です。
elementary school = 小学校。
しかし、物理学の硬い文献においては「elementary」という英単語の意味は必ず「要素的な」です。
これは条件1で言われている要素の事であり、
素粒子 = elementary particle,
要素過程 = elementary process,
です。
この様に、「基礎」という日本単語や「elementary」という英単語は、教育業用語として用いられているか物理学専門用語として用いられているかで、ニュアンスが正反対に変わります。
現象論は卑近であり基礎は高遠な最終目標(永遠のテーマ?)です。
学習も研究も、まず卑近な現象論から始め、次第にレベルを上げて基礎に近付く。
人材も、最高の頭脳は基礎の研究に、それほどでもない人は(には基礎の研究は無理そのぐらい基礎の研究は険しいので)相応の他の分野に就業する。
まあ、これが科学の伝統的な(古い?)価値観なのですが、この様な価値観は、要素還元主義と呼ばれる考え方とセットで存在していたために、要素還元主義は間違いだとの指摘が広く是認される様に成って以降は、少し色あせた感があります。
しかし、基礎志向は要素還元主義とは一応別だし、基礎の研究という分野は今でもまだ辛うじて学問の王座に座り続けている従がって人間の活動の中で最もエリートなカテゴリーであり続けている、と私は感じます。
農林水産業、工業(テクノロジー)、商業、医事、刑事、法曹、外交、軍事、インテリジェンス、人事、教育、庶務、物理学の基礎理論の研究ではない諸科学、文科系だと普通言われる諸学問、金融、金儲け(投資や経営など)、国際的陰謀犯罪とそれへの対処、政治、統治、報道、交渉、戦闘、労働、人生、スポーツ、芸術、今まで宗教だと言われて来た事、どんな分野も基礎の研究と比べるなら分野自体が二流です。
従がって、自分の賢さを世に顕示するために犯罪した知能犯は無駄な努力をした、というのが本当の所です。
どんなに狡賢く立ち振る舞おうとも、そんな事は、基礎の研究に比べれば下界の話、二流の賢さ(小賢しさ)に過ぎません。
知の世界は知能犯が自慢に成るほど狭くはないのです。
軍事兵器の迫力の醍醐味も、物理学の演示実験(でんじろう先生)が魅せる種類の事であり、それは物理学の持ち味の中では低学年向きの持ち味です。
だから、基礎が興味の中心に成る段階にまで物理学を見る目が肥えた者は、どんなに良く出来た(どんなに威力の大きい)軍事兵器の迫力も(そんなのは現象レベルの持ち味に過ぎないので)退屈だと感じるし、(映画やドラマでのフェイクは別ですが)その退屈を対人使用によって雪辱しようという考えは以ての外だ、と知っています。
そこまで目の肥えた者を振り向かせる事が出来るかもしれない現象はビッグバンだけでしょう。
天文学(astronomy)と宇宙論(cosmology)を混同しない様に気を付けて下さい。
天文学は物理学とは別の独立した学問であり、物理学ほどエリートなカテゴリーではありません。
それに対して宇宙論は、物理学の一部であり、物理学内でもエリート度が準最高です。
進路選択では、これらの違いを知った上で、自分が行きたい方を志望する様にして下さい。
この他に天体物理学というのが有り、これは物理学の一部門ですが、物理学内でのエリート度は低です。
宇宙物理学というのも有るかもしれませんが、有っても宇宙論とは違うのではないかと思います。
とにかく、宇宙論に行きたい人は、間違って他の分野を志望しない様に気を付けて下さい。
因みに物理学内でのエリート度が伝統的に今まで最高だったのは日本語では「素粒子論」と呼ばれる分野で、現在では超弦理論の研究を含んでいる分野です。
論文誌で言うと日本語で言う素粒子論は例えば米国物理学会発行の「Physical Review D」に分類され、Physical Review D のカテゴリー名は「particles and fields」じゃなかったかと思います。
これは日本語で言うと「粒子と場」ですね。
昔はそうだったと思うけど、今(2019年07月24日)調べてみると「covering particles, fields, gravitation and cosmology」と書かれていました。
翻訳すると「粒子、場、重力、および宇宙論をカバーしている」という事ですねえ。
物理学の進歩に伴って素粒子論と宇宙論の境界が次第に無く成って来ている、という事かもしれません。
意訳すると「最もエリートなカテゴリーをカバーしているのはDです」と書いてある様なものです。
私の出身は素粒子論です(と言うには勉強不足です)が、現在の私の志向性および私が作った分野は「文法物理学」であり、これは素粒子論ではありません。
だから、ここまでの私の記述を「出来るだけ素粒子論に行け」という風には解釈しないで下さい。
文法物理学は未だ学界内で制式化されていません。
さて、しかし、基礎の研究が知の頂点である時代、そういう時代がもう直ぐ終わる、今はそんな時期だと思います。
計算機科学が、基礎に相当する機械語よりも現象論に相当する高級言語ないしソース・コードの方が有意味である事を浮き彫りにした、からです。
もうひとつ理由が有りますが、それは我田引水に成るので割愛します。
しかし、それでも、基礎よりも高級なテーマを目指す事は、基礎の持ち味を知った上でなければ、手の届かなかった葡萄を「あんなのはどうせ酸っぱいから手が届かなくて良かった」と自己欺瞞して残念を打ち消す態度(適応規制)や、知っていたら基礎をやりたかったのにという後悔と紙一重だし、そういうテーマでも基礎の勉強で頭を鍛えた人との競争に勝てないかもしれません。
[条件1][条件2][条件3]があまりに厳しいので、そもそも基礎理論なんて存在しないのではないか、と疑う事は極めて妥当です。
それを言われると基礎の全ての研究者は「うーん」と唸って沈んだまま二度と浮かび上がって来ないかもしれません。
そもそも基礎の研究者が絶望していない、希望を持っているのは、今までがあまりに上手く行き過ぎたからだ、と皮肉を込めて言う事も出来るでしょう。
究極の基礎理論にまだ到達できていない途中の段階で、それなりの成功を体験させて気を持たせ続ける、という誘惑術を何段階にも渡って、まるで自然が人間に仕掛けているかの様です。
私が上で言及した伝統的な価値観の証拠を以下に引用します。
吉永良正著「ゲーデル・不完全性定理」講談社272〜274ページからの引用です。
もし、「これこそ”完全”な理論だ!」というものがあり、それが幸か不幸か(!?)、見出されてしまったとしましょう。
それ以後、人はなにを考え、なにを行えばいいというのでしょうか。
その全能なる理論を学び、それに従うことしか、人間にできることはなくなってしまうはずです。
もちろん応用面での発展は可能でしょうし、その全能なる理論は豊かな社会を実現してくれるかもしれません。
しかし、もはや知的な努力も探求も冒険も要求されない”豊かさ”とは、はたして真の意味での精神的な豊かさといえるでしょうか。
そうした知的状況に人が耐えられるとは、私にはとても思えません。
ね、言ったでしょ、ある程度以上高いレベルに達した人なら誰でも知ってるって、ま分野が数学か物理学かで違ってますが。
応用や社会の豊かさは基礎の研究よりもくだらない、それも、ただくだらないだけでなく、くだらなくて耐えられない、という事がハッキリと書かれています。
証拠としてはアンケート結果1名分に過ぎませんが、この人の気持ちが私には良く分かるし、吉永さんの意見の内容も、自分がそう感じるだけでなく誰でも同じ様に感じるはずだ、という内容です。
基礎という分野の持ち味を知ってしまったら誰でも必ず少なくとも一旦は吉永さんと同じ感じ方をする様に成ってしまうはずだ、と私は強く思っています。
これは当然の事なんです。
だから、この人を責めてはいけない。
一度見たら最後、もう他の何もかも全て分野自体が二流だと分かった感じがする様に成ってしまう、それが基礎という分野です。
そして、この段階を経た後のでなければ、基礎以外の分野の方が有意義だという認識は全て、知らぬが故の仏です。
基礎という分野の存在と持ち味を知らせてこの仏を自惚れの眠りから覚ますと、この仏がいかにジタバタする事か。
それを良く現している実例が「相対性理論は間違っている」という言説です。
この様な言説に貼られるトンデモというレッテルは、流行語と言っても良いぐらいに有名ですが、トンデモ言説が跳梁跋扈し始めた主要な根本的理由の1つがそこに有る事は、まだ指摘されていないのではないでしょうか。
今まで宗教だと言われて来た種類の事を重視するのも、ルネサンスでの反省を良く自分の物とした上での事でなければ、それも知らぬが故の仏です。
それなのに、現代の先進国においては、それが出来ていない、ルネサンスで愚を暴かれた事のホトボリが冷めたせいで今まで宗教だと言われて来た事がぶり返している、といった様相を呈しています。
ニュートン力学等の科学の知見のいかに実なるかとの対比において中世に西洋で最もエリートなカテゴリーだと考えられていた宗教の文献は全てその虚なるが故に膨大な量の紙くずの山だ、哀れその時代に生きた人は人生全体がその中に埋もれた、とまで一旦は言われたのに。
著者はこだわっているかもしれないので念の為に書いておくと、吉永さんの上掲書籍の分野は数学ではなく数学基礎論ないし論理学です。
基礎という分野で学問的業績を上げる事を目指す人は、自分がどんなに若くても、そのコースから外れた(本人が望めば死ぬまでずっと外れないで居る事が出来る社会でなければ本当はいけません)人を、それが幾ら年上であっても、幾ら経済的や社会的に出世していても、(軽蔑する意味で)敵ではない、と考えます。
師でも先輩でもない、そもそもスタート・ラインにすらつけていないのだからライバルですらない、眼中に無いのです。
基礎が最もエリートなカテゴリーだからです。
その態度を不敬だとして腹を立て若者を若造呼ばわりする事は年配の男に有りがちですが、その有りがちな態度の方が逆に生意気・増上慢であり、犯罪の動機に成り易い有害物質です。
そして実際に、それを動機とする犯罪が社会に蔓延している、と私は感じています。
学生時代に大学構内の書店で、ある書籍に「時空が曲がっていると考えた瞬間にアインシュタインの脳に歪みが生じた」という意味の記述を見付けました。
それは、まだトンデモという言葉が無かった時代の事で、私自身も、書店に並んでいる学術書の内容はどれも信頼できる、そういうものだよ、という風に考えていた時代の事だったので、例のアレ(今風に言うとトンデモ)じゃん、という認識の仕方は出来ませんでしたが、それでも直ぐにインチキな本だと言う事を私は見破りました。
これは精神病冤病犯罪の一例として、また、凶悪な精神病冤病犯罪の犯人は(血統による分類ではない)人種がトンデモ学説発信者と同じであり、したがってトンデモ学説発信の動機と精神病冤病犯罪の動機は同じだと推測する根拠として、私の記憶にハッキリと残っています。
仮に若者の自意識が思い上がりであったとしても、それは内面の自由に属する事です。
基礎という分野の持ち味を知った者の目には、それを知らない者は、人生経験がどうの、社会経験がどうの、他分野での成果がどうの、そんな事は一切関係なく一律、無知な猿です。
おおよそ年長者は大方が言ってみればハズレくじであり、それと対比して言うなら若者はまだハズレだと決まったわけではないくじです。
年長者は、自分がハズレくじだったからと言って、年長の自分を差し置いて若年のお前がクジを当てようなんて図々しいと言ったり、お前もどうせハズレくじなんだからと決め付けて、若者がクジを引くのを妨害する、それは個人の権利への深刻な侵害であると同時に社会への公害です。
どんなに少なくても、たとえ1個だけだったとしても、中には必ずアタリくじが含まれており、それは本人にとっても社会にとっても絶対に必要な物なのに、それを潰してしまう事に成るからです。
我々はハズレくじをスカと呼びます。
「疑わしきは罰せず」の標語で有名な司法における推定無罪の原則を真似て言うと、年長者を評価するに当たっては推定スカの原則を適用して今まで私は生きて来ました。
つまり特段の事情が無ければ目に入った年長者は全てスカだと見なして言動する、そういう事です。
鈍くて自惚れの強い無知な猿は、自分がハズレくじだという自覚すらないケースであり、これも決して少なくはありません。
自分の社会的な地位の向上に努めず専ら知識の向上のみに努めていた大学卒業直後の私に同年代の友人が「あなたは進歩が(学生段階で)止まっている」と言うのを聞いた時に私が逆に「進歩が止まっているのはそっち(および私以外の大多数の人々)でしょうが」と思ったのは、こういった価値観が背景に有っての事です。
世間知の発達や社会的地位・経済的利権の獲得および生物としての生殖という軸で測るか、最もエリートなカテゴリーの世界史において為す所が有る見込みで測るかで、進歩しているか進歩が止まっているかは二律背反の関係に成るのを避け難い。
20才の頃に既に私は、前者(世間知・・・)は個人としては進歩であっても人類としては今までやって来た事の繰り返しに過ぎず何の進歩でもない、くだらない、無意味である、という事を見抜いており、それ故に前者の軸に沿って進むという進路選択は論外でした。
ボスという地位なんて猿社会にでも有る。
そういう進路選択(前世代の人の人生のただの繰り返し)は、才能の足りない人が、才能が足りないから仕方なくする選択です、それが人口の九十九点何パーセントだろうが。
新しさをもって有無の基準とする学問の価値観で測れば、そんな人は最初から生まれて来なかったのと同じです。
そんな事すら分からないなんて、私のその友人は大学で一体何を学んだと言うのだろうか。
また、私が生活する為に仕方なく働いていた時、職場の人が私に「この仕事(高卒用作業)のどこが気に入らないのだ、集積回路の設計なら本望ですか?」と尋ねた事が有る。
ここまでで説明した様に、集積回路の設計(私には無理だが)だろうが一流企業の社長(これも私には無理)だろうが、どれも駄目な(本望ではない)んです、それも、ただ駄目なだけでなく論外なんです。
その事を説明しようとすると、こんなに長く成ってしまう。
だから説明できないので黙っているとコミュニケーション能力が足りないというレッテルを貼られてしまいました。
職場では、役務を提供する義務が有るだけで、何も知らない猿に一から物を教える義務は無いはずである。
結局そこを私はクビに成ったのですが、その本質的な理由は、私に質問した職員と同じ点に雇用者が引っ掛かりを感じた事、および雇用者が私を不敬だと感じてそれに腹を立てた事です。
雇用者が解雇理由としてコミュニケーション能力の不足を挙げている事を、その後ハローワーク(職業安定所)で知った。
従がって不当解雇なので猿と呼ばせてもらう。
無知な猿とは、こういう事です。
つい熱が入って(カッと成って)しまって、補足説明のここまでの部分を書き進めてしまいましたが、当初は、この様な人情に及ぶ事柄については、私の別のウェブサイトに書く事とし、当典においては感情を抑えて淡々とした記述に努めるつもりで居ました。
その言い訳に成るかもしれませんが、「イスラム原理主義者によるテロ」という決まり文句ですっかりおなじみに成ってしまった「原理主義」という言葉は、元々はキリスト教の原理主義を意味する為に作られた言葉で、その英単語は「fundamentalism」です。
つまり、上で私が「基礎的な」は「fundamental」ですと説明した時に出て来た単語「fundamental」は、人に極度の尊重を催させる、そういう単語なわけです。
よし、こう成ったら、ついでに、もう少し書こう。
何故、基礎は教育においては初歩なのに、研究においてはエリート・カテゴリーなのか。
それは、常識で言うと、基礎事項は当たり前の事、分かり切った事、そこを幾らつついても新しい発見は何も出て来ないはずの所、調べれば調べるほどますます正しいと分かるだけであったはずの事項、そして長年に渡って膨大な人数の人(みんな)の目に触れていながら誰も何も気付かなかった事項だからです。
だからこそ、みんなが分かっているはずの事が実は本当は良く分かっていない、と気付いた人(最初の1人だけですよ)は最高級の賢さを見せた事に成るし、詮索すると新しい発見が有った、と成ると、それは他の何よりも興味深い、という事に成るし、基礎事項について新しい発見をするのは不可能に近いぐらい難しい、真の天才にしか出来ない、という事に成るわけです。
常識、それも俗常識ではなく学校で教えられる様な正規の常識を覆し、みんなの目が節穴だった事を示す、それから、答えはどっちなんだろう、是非知りたいけど、そんな事今まで誰も考えもしなかったよ、と言われる様な疑問を基礎事項について世界で最初に持つ、それが基礎の研究が知の頂点であるゆえんです。
ところで、学問の主役が物理学や数学の基礎の研究から心理学の様な分野に今変わりつつある、と私は思うのですが、これは、主旨と枝葉末節への仕分け、という観点から説明できるでしょう。
吉永さんの様な価値観の人にとっては、基礎こそが主旨であり、基礎の上に成り立っている具体的な色々は枝葉末節なわけです。
枝葉末節は、どんなに規模が大きく高度に発達していても、まあ、そりゃあ色々あるでしょうけど、でも、基礎はコレでしょ、うん、だったら、その詳細がどうかなんてどうでもいい事じゃないか、という事に成るんです。
この価値観へのアンチ・テーゼとして紙版の書籍という物が好例だと思います。
紙版の書籍の基礎は紙とインクです。
しかし、紙とインクについて幾ら研究しても、その書籍で表現されている著者の思想については何も分かりません。
肝心なのはその書籍で表現されている著者の思想です。
今では、同じ思想を表現するのに紙とインクを使う必要は無く、電子ファイルで表現する事だって出来ます。
この事は、著者の思想が主旨であり、基礎が何であるかは枝葉末節である事を意味します。
同じ意味の事が書かれていれば、媒体としては、紙とインク、電子ファイル、まあそりゃあ色々あるでしょうけど、媒体が何かなんてどうでもいい事じゃないですか、という風に成るわけです。
そして、これからは、そういう価値観の方が主流に成って行くと思います。
人工知能の研究なんかが、そういう流れをリードしている様な。
人工知能よりも人工意識の方が本質的だと私は思いますが、まあ、これも人工知能に含まれるのでしょう。2019.07.09,10,12,13,14,16,17,19,20,24;2020.12.02


バネがその両端に接している物体に及ぼす力と、バネの長さの関係、を表すフックの法則も、現象論的な力の法則です。


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【SEOテキスト】宇田雄一,04.1.11,CAN-1-1-18-18〜22,基礎的な力の法則,1つ1つの質点が受ける力の法則としては、万有引力の法則と、ローレンツ力の法則(CAN-1-1-14-9〜16)の2つのみが基礎的である。どの質点も直接的には、これら2種類の力のみを受ける。他の力の法則は「現象論的な力の法則」と呼ばれ、上記2つの基礎法則と電磁気学の法則とから導き出されるだろうと、非相対論的古典力学の段階では期待しておく事にする。万有引力定数Gおよび質点の質量は全て正なので、万有引力は引力である。したがって、2体散乱問題で考えた逆2乗中心斥力は、現象論的な力である。ある力の法則が現象論的である事は、それ自体としては、その法則が近似法則である事を必ずしも意味しないが、実際問題として、力の法則に限らず今までに発見された現象論的な法則は全て近似法則であり、非相対論的古典力学では、万有引力の法則とローレンツ力の法則のみが、近似無しで正確に成り立つと考える。CAN-1-1-20,問題44で扱った系は正確には質点系ではなく、質点とバネより成る系です。バネの存在に目をつぶって、質点同士が直接に遠隔力を及ぼし合うと考えた場合にのみ質点系とみなされる。