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【補足説明欄】 第22行目の「冒頭の問題」とは、「運動方程式があれば慣性の法則は必要ないのか?」という問題の事です。2010.11.29 17〜30 行目について。 山本義隆著「新・物理入門<物理IB・II>」駿台文庫の24ページには、次のように書かれています。 『そしてこの慣性系の存在についての命題が力学の第 3 の原理(通常は運動の第 1 法則といわれる)になるが,・・・』 運動の第 1 法則に対するこのような解釈を、私は 29 行目以降で否定しているわけですが、これが妥当か否かは、ニュートン自身が心中でどう持っていたか、によって決まる事なので、山本義隆氏が科学史的な根拠に基づいて発言しておられるのならば、山本義隆氏の意見の方が私の意見よりも正しいのでしょう。 しかし、そのような科学史的な根拠が無く、表に出ているニュートンの記述のみによって判断したのならば、山本義隆氏の意見は、ニュートンの記述が最大限合理的に成るように解釈をこしらえるものだ、と言わざるを得ません。 なぜなら、マッハ力学の227 ,228 ページによると、(プリンシピアからの引用でなくて申し訳ないが)ニュートン自身による運動の第 1 法則の記述は、単に、 『あらゆる物体は,それに力が働いて状態の変化を強制されないかぎり,静止状態または一様直線運動をしつづける。』 というだけのものらしいからです。 何らかの座標系の「存在」という文言は 1 つも入っていないのです。 それを、慣性系の存在についての命題だ、とするのは、後付の理屈です。 むしろ、科学史的に考えれば、単に、ニュートンの時代には、まだ、アリストテレスの間違った考え(慣性の法則に反する考え)の影響力が残っていて、ガリレイの主張を追認する形で、それを敢えて否定する事に意味があった、と考える方が、自然でしょう。2007.7.21 それに、もし、山本義隆氏は、論理的内容として慣性の法則が慣性系の存在を内容として含む、と言っているだけだ、と言うならば、運動方程式だって論理的内容として慣性系の存在を内容として含む、と言えなくはない。2007.7.24 また、ニュートンは、絶対静止系の提唱者なのだから、運動方程式が絶対静止系で成り立てば一般の慣性系でも成り立つ、という事に気付いていたとしても、力学理論の基礎としては、慣性系の存在なんてそんな洗練されたモダンな条件ではなく、絶対静止系を考えていたはずだ。2010.11.30,2010.12.01 |
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【SEOテキスト】03.8.5,宇田雄一,れるな。定義だけしっかり押さえて、あとは公式集から結果だけ持って来れば、それで良ろしい。数学は使え。COM-1-5,万有引力の法則を挙げて、これが運動方程式から導き出されない事を、××君は指摘した。良く気付いたね。力の法則は運動の法則とは別個の原理であり、運動の法則から導き出されない。万有引力の法則は典型的な力の法則だ。CAN-1-1-4,エネルギー原理、運動量原理、角運動量原理は、その名に反して原理ではない。これらは運動方程式から導き出される。運動方程式は原理だ。原理は何者からも導き出されない。CAN-1-1-4-3〜6慣性の法則,運動方程式があれば慣性の法則は必要ないのか?という問題についてどう思うか××君に尋ねられた。慣性の法則は、力を受けてない物体の加速度はゼロだ、というもので、この法則は運動方程式において力をゼロとすると出て来る。したがって冒頭の問題が議論の対象となるのだが、僕は、原理を述べるに当たって単にニュートンが重複という無駄を犯してしまっただけだ、と考えている。たとえば山本義隆氏は、慣性の法則は慣性系(それに依拠すれば運動方程式が成り立つ座標系)の存在を保証するものだ、と述べている。このように、慣性の法則が運動方程式とは別個に必要だ、と考える人が幾らか居る様だが、僕は、この様な人達の態度は「はじめにニュートン無謬ありき」とでも呼ばれるべき誤まった態度 |
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