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物理学の勉強を始めたばかりの頃の私(物理学正典の著者)は、新発見を目指して既存の教科書を読んでみましたが、いつまで経っても新しいアイデアは出て来ませんでした。

研究者の視点で教科書を読むと、必要な事は全て既に書かれており、自分の出る幕は全く無い、かに見えました。

そこで、その事実に無理して逆らわず、研究者の視点から学習者の視点へと頭を切り替えて、当分は新しい事を考え出そうとせず、学習に専念してみる事にしました。

すると、この方針転換をした途端に、既存の教科書の全てが共通して持つ深刻な問題点が色々と見えて来て、そこに自分の活躍する余地を見出す事が出来るようになりました。

つまり、教科書による描写の対象となる新しい理論を考え出すのではなく、既に既存の教科書によって描写されている既存の理論を、誠心誠意キチンと描写しようとすると、自然に既存の教科書の描写よりマシなものが出来上がる、という事に気付いたのです。

そして、物理学に対してこういうアプローチを取り続けた結果、たいていの物理学者が「それは物理学ではない」として端から研究の対象にしない、書き方(文法)の問題を、専らの関心事として追求する事となり、既存の理論の新しい書き方に留まらず、新しい文法によって特徴付けられる新しい理論の提案も、今では出来るようになりました。

学習者の視点を採る事は、解説方法論としてのみならず、研究方法論としても非常に有効です。

私は今でも学習者の視点で考え続けています。

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学習者の視点を採ったからと言って、それで直ぐに物理学正典のような大規模なものを書ける様に成ったわけではありません。
最初は、教科書の分からない所にぶち当たると、自分の頭の良さが足りないのかと思い、大変な回り道をした後で分かるように成って、「だったら、こういう風に書いておいてくれれば、一発で分かったのに」という解説法上の改善案が、個々別々に思い浮かぶくらいのものでした。

面白い事に、 1 つの教科書で分からない事は、他の教科書を見ても分かりませんでした。
分からない所に限って、他の教科書を当たっても同じ事が書かれているだけなのです。
皮肉な言い方をすると、どこを太字にするかまで同じ。
探しても探しても「そこは、もう分かった」と思う事ばかりが書かれていて、肝心の分からない点については、判で押した様に同じ説明です。(ベルグマンを読んでも分からなかった相対性理論がメラーを読んで分かった、という事もありましたが。)
この事は学習を進めるに当たっては大きな困難ですが、「だったら、こういう風に」という私の解説法には出番がある、という事でもあります。

私が、まとめ、というものを作り始めたのは、大学へ入ってから 4 年目ぐらいの事です。
これは、物理学正典を十分に予感させるものですが、スケールが教科書の 1 セクション分ぐらいなので、他教科との関連性も考えつつ 1 教科全体をまとめる物理学正典ほどには体系的ではなく、ファイン・ピースといった程度のものでした。
卒研(西島和彦著「場の理論」紀伊国屋書店の輪読)では、発表の順番が回って来たときに、それをコピーして配布したところ、先生がゼミの進行を止めて観賞用の時間を要求した事もあったぐらい、大変好評でした。

物理学正典の 1 科目に匹敵する規模のものを初めて完成させたのは、卒業後の 1995 年 1 月の事でした。
これは、そのままの形で正典コンテンツに正式に追加するつもりはありませんが、当サイトで紹介するかもしれません。
量子電気力学についてのノートです。

世間でも学界でも、とかく、研究の方が学習より上だ、と考えられがちですが、研究者の視点を採るときには、問題無き所に無理して問題を見出そうとし、供給のために需要を捻出する、といった倒錯した態度に落ち入りがちです。
そうした研究業績の最終的評価は、それが将来の学習者のための教科書に載るか否か、載るとすればどの位置にどれくらいのウェイトを占めて載るのか?によって決まる、という事と鑑みるとき、何が問題なのか?何を研究すべきなのか?は、本当は学習者の視点に立ったときに一番良く見えて来るはずだ、と分かります。

私の場合、学習者の視点に立つ事によって、理論の文法こそが問題なのだ、理論の文法こそ研究に値するのだ、という認識に到達しました。
それが著作として最初に結実したのは、私が 1999 年 7 月に完成させた著書「古典物理学」においてでした。
これは解説書と言うよりも研究書です。
これを書いた時点では、私は、まだ、文法を研究する、という言葉の意味を、既存の理論の既存の文法についてもっと良く知ろうと努める事、というぐらいにしか考えていませんでした。
その際に念頭に置かれていたのは、古典論の文法と量子論の文法の 2 つだけです。
つまり、量子論の文法を超える新文法を提案する、というアイデアには、その時には、まだ思い至っていなかったのです。
しかし、それは、量子論の文法を超えるレベルで新文法の提案を繰り返し文法を逐次改良して行き、それを推進力として物理学を際限なく発展させる文法主義、という研究方法論を案出するために、避けて通れない重要なステップであったと思います。(ただし、私の著書「古典物理学」は、文法主義に至る途中のステップとしての意味以外に、実証主義の行き着く果てを突き止めたものとして、それ自体としても存在意義を持ちます。)
このようにして、私は、学習者の視点で考える事によって、文法主義の提唱という研究業績を、生み出しました。

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著者について詳しい事は宇田英才教室サイトを御覧下さい。